「呉製鉄所の閉鎖」の報に思う事。

呉製鉄所が9月で閉鎖とのこと。「鉄は国家なり」の時代は終わりか、と思わせるような書きぶりだが、現に別の記事で、日鉄は「インドで一兆円の投資」と高炉の建設をするとの発表がある。(2022年9月28日)。
詳細は不明だが、呉の製鉄所のインフラを改修などによって更新することで、残す道はあったのではないかと思う。大企業になれば、それこそ陰に陽に、例えば地元の雇用や経済に影響するのは当たり前の話で、わざわざ書くまでもない。既存の設備が儲かっていなかったと言われればそれまでなのだが、ニュースを追っていても今一つ納得感が薄い。

同様の感想は令和2年に実施されたというパブコメ(以下に添付)などでも述べられている。とにかく日鉄側から情報が無い、と。さらに跡地の利用方法が決まっていないというのも、今回の閉鎖にあたって、議論が尽くされていないまま、閉鎖という話のみが先行した結果ではないかと思わされる。

この件が示唆しているのは、例えば「脱炭素」の旗印で既存の設備を停止すると言えば、社会の環境意識のニーズを汲んだ、竹で割ったような「トップの決断」感が醸し出されるのだが、呉製鉄所の休止まで望む人はどれだけいるのかわからない。

筆者にとってこれと近い印象を残すのが和歌山製油所の閉鎖である。こういう話こそ、例えば、皮肉でなく、意思決定のプロセスを明らかにして、「今後の日本社会の在り方」を考える極めて現実的な題材になる気がするのだが、その社会を中心を担う世代の参画がなされず、一部の経営者のパフォーマンスの場となっている気がしてならない。エネルギーにしても製鉄にしても国益に関わる産業の拠点をそんなに放り捨てて良いのだろうか。「油断」という言葉もあるが、鉄も油も断ってはなるまい。

別途触れたいが、アメリカでは、シェールの生産量が戻ってきていると言うデータも出ている(Rystad Energy社のリリースより)。つまり統計的には脱炭素の流れなどと言うものは存在しない。

もしかしたら、「日経さんが脱炭素の流れが来ていて、ESG投資もこれから盛り上がると書くから、決断したのに…」と言う経営者もおられる(社名は出していないが、この種の嘆き節も別に記事にされている)かもしれないが、最近の日経の環境ゴリ押し紙面を見ると、読む方にもそれ相応のリテラシーが求められる。

日本が乗り越えなくてはならないのは、脱炭素などではなく、至る所で観察される「閉鎖的な意思決定プロセス」ではないかと思わされる。ここまで来たら取り返しはつかない。

経営は結果責任。一国民として、その帰趨に着目したい。

本日参考にした記事は以下。

今月末閉鎖の日鉄・呉地区 9割の再就職先決定 - 日本経済新聞 (nikkei.com)

日本製鉄、インドで1兆円超投資 ミタルと高炉2基新設 - 日本経済新聞 (nikkei.com)

パブリックコメント。
54842.pdf (kure.lg.jp)

以上。

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