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エントロピーの法則で考える戦争の割の合わなさ(映画『Midway』に観る「建設」と「破壊」の法則)

凄惨な海戦のリアルなCG表現などにとかく関心は行くと思う(自分は正直プレヴューからそこにもかなり惹かれた)のだけど、戦前、アメリカに留学することで、敵国の国力を知悉していた山本五十六と、彼が戦前交流のあったアメリカの軍関係者との付き合いなども大雑把に描かれている。つまり、パールハーバー以前からこの映画は〈日米〉を描く。

「長期戦になるとアメリカに到底勝ち目がない」と完全に理解していた山本の苦悩も行間に描かれているように思える部分は、この映画の質を幾分か上げていたと思う。

直接映画のストーリーに関係はないが、本作を見ていていよいよ深めた戦争への感慨というものがある。いくつかあるが、そのうちの一つは、戦争は一旦始まってしまえば、相手方の戦力の破壊と敵の兵員の殺害が、近々の、そして最大の目標となるということだ。「当たり前だろ」と言われそうだが、こういう軍による「建設」と「破壊」という相反する活動の応酬や活動の反復を見ていると、破壊が「いかに簡単な行為であるか」が分かる。もちろん映画でも描かれているように、巨大な戦艦やら航空母艦やらを作ったり守ったりするのは大変な労力なのだが、一旦敵が破壊すると決めたら、それらは大変脆く、その破壊が如何に容易に達成できるのか、ということだ。

そんなことを言うと、「いやいや、敵を撃つことがいかに困難なことかは映画でも描かれているではないか」と反論されそうだが、それはちょっと違う。もちろん命を賭けて敵の艦隊に突っ込んでいく行為を簡単だと言いたいわけではない。これは物理法則であるエントロピーに関わる話だ。

人類の活動たる〈建設〉と〈破壊〉とを比べたとき、〈建設〉には多大な時間と労力が掛かるが、それらを〈破壊〉するとひとたび決めたら、命知らずのほんの数名の行為(「勇敢な軍人の献身」いや、戦闘行為、破壊行為)によって、いかにも容易に破壊は可能なのである、ということだ。秩序のある建築物を計画、設計、建設し、それを保守することには多大な労力がかかるのは、エントロピーに関わる原理だ。世界は人為から逃れると、無秩序な状態へと戻る。これはエントロピー増大の法則だ。それに必死に抵抗し維持しているものが文明である。そして人の手によって作られたものは、脆い。

森本哲郎は文明とは、部屋から埃を掃き出す行為だと説明した。放っておけば人のいない部屋は埃が積もる。これは無秩序への帰還の圧である。それを埃のない状態という秩序として維持するのが文明行為であり、生活圏と埃を分ける行為が文明なのだということだ。かくも文明は維持しようとする努力を欠くと容易に砂に埋もれて地中に隠されてしまう。古代文明の遺物が土の中から見つかるのは、こうしたエントロピー増大でも説明できる。人がいなくなれば埃を居住空間から「掃き出す」ことができなくなり、砂や土に埋もれる。

ヒロシマやナガサキと言う街を作り上げた人々の時間と労力。それとそれらの街を破壊するための時間と労力を考えてみればいい。確かにマンハッタン計画に従事した人間の数は膨大(広島市の人口全体に相当する人々が関係している)だし、掛けた時間も相当なものだ。だが、これらの街を建設した時間や労力に比べれば、原爆開発に従事した人員の努力の総量は、都市建設に掛かった労力や時間の足元にも及ばない。

これは防衛(建設)と攻撃(破壊)の非対称性を意味する。つまり攻撃し破壊する側の方が、無秩序へと回帰したがるエントロピー増大の物理法則を味方につけているので、ずっと「有利」なのだ。もちろん日本海軍の航空母艦を戦闘機で攻撃するアメリカ海軍側の主人公たちの自己犠牲は無視しがたいドラマとなるに相応しい「課題」を提供するものであるが、破壊すると決めた人々からの攻撃から、秩序ある自らを「護る」という努力が、いかに実りの少ない事かと思うと、耐えがたい痛みを覚える。

つまり戦争は防衛する努力を旨とする人々からすると、まったくもって割に合わない選択肢なのだ。孫子は言った。実際に戦闘を伴わない状況での勝利ほど尊いものはない、と。それは戦闘が基本的に破壊行為であって、圧倒的な「強さ」を持つことを了解した上での「教え」なのではないかと思える。

戦争は始まってしまえば、兵士たちは無力だ。「いや、彼らが戦って祖国を守ったのだ。無力であろうはずがない」という、紋切り型の戦争や戦闘容認派の主張はここでは意味をなさない。無力と言うのは、戦うべきか戦わざるべきかという選択肢が彼らには〈ない〉という事であり、選択肢を持たない立場の弱さのことを言っているのだ。

映画は最終的に、自分の命を犠牲にした(しようとした)戦闘機を操る兵士たちの(自らの命を顧みない)献身を称えるもののようにも見える(それは映画の目的の一つであろう)が、その実、戦争の実行(実現)を決めた連中とは別に存在する〈現場〉の救い難い地獄的状況を描いているようにも思える。

80年前と異なり、現在はドローン技術などの無人攻撃技術が洗練されてきている。攻撃する側が自らの命を危険に晒さずに敵を攻撃できる時代になった今、建設された巨大な戦艦や空母がかつて以上に如何に簡単に破壊され得るかを実感しているのは、戦艦や空母を守る当の軍事関係者自身かもしれない。一旦戦争になれば、彼らはかつて以上に容易に破壊されてしまうのだ。それは保守よりも破壊の方がはるかに容易であるからだ。

映画『MIDWAY』は、日米双方の太平洋で失われた命に捧げられている。どちらか一方を悪として描いたかつての戦争映画からは一線を画す視点がそこにはある。これはクリント・イーストウッドの映画『硫黄島からの手紙』辺りから始まった視点のようにも思えるが、それがさらに一歩前に進められた感がある。Midwayとはまた象徴的な固有名詞だ。そこは戦争の勝敗を決める分岐点、中間地点でもあり、また戦争のない世界への道程の中間地点のようにも、左右どちらの極端な道も取らない「中庸之道」のようにも聞こえるからだ。

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