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〈理解〉の対象としての音楽

音楽に「理解」という言葉を使うのを嫌う向きはどこにでもある。

音楽は理解するものではなくて聴いて感じるものだ、などといういかにも容易に共感を得そうな言説の類だ。だが、膨大なエネルギーと集中を以て書かれた作曲作品は、口を開けていれば入ってくる餌のようなものではなく(耳を閉じていなければ入ってくるようなものではなく)、音楽への情熱的なコミットメントをもって対峙しなければ、それを真に把握・理解することなどできない。

特に音楽作品が一定のムードを伝え、快美を催させるだけの佳作という範疇に収まり切らないものについては、なおさらだ。マーラーの交響曲群や、de Hartmannのヴァイオリン・ソナタ作品51のような室内楽を鑑賞するというのはそういうことだ。簡単に把握・理解できるものを、そもそも、この二人のような作曲家は書いていないのだ。でも分からないからといって諦めてはいけない。それはいつかきっと明瞭に理解できるものだ。そう心に決めて音楽作品への傾倒に献身する。

それが先に述べたコミットメントのことだ。このコミットメントなしに、本当にその世界を知ることはできない。好む前に献身するのだ。献身できたときはすでに愛しているのだ。

(2022/12/02 Facebookへの投稿の転記)

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