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人類を救うなら疑似科学の勝利は善か?

『多様化世界〜生命と技術と政治』を書いたフリーマン・ダイソンは、同著の中でカール・セイガンらの主張した「核の冬」セオリーが擬似科学であると見抜いた、と書いた(奇しくもこれを書いている今日9月12日は「核の冬」理論が発表された日だとラジオが言っていた)。「核の冬」とは、もし全面的な核戦争が起きたら核爆発によって巻き上げられる粉塵によって世界中が暗くなって気候が長期にわたって冬のように変動してしまうだろうという予想で、これは科学の視点からの核兵器の廃絶運動の後押しになるもので、多くの良心ある識者がこれを支持した。ところが、核兵器が使用される熱核戦争の後も、このようなことは起きないだろうと、多くの気象学者などの科学者がこの論理をおかしいと感じた。結果としてはカール・セイガンの論理は段々と下火になり、多くの人々の記憶からも薄れてしまったが、「核の冬」論理をおかしいと感じた科学者たちはダイソンを含め、「科学的に正しいこと」であってもそれを主張することにためらいを感じたという。つまり「核の冬」の論理が嘘であったとしても、その嘘を信じて核廃絶に人類が動くことは善であるとも考えられたからだ。そのことを思い返して、科学的に正しいことだけを言い募るべきであったのか、未だに分からない、というようなことをダイソンは正直に書いていた。

9月11日(日)の東京新聞の一面を見た時、このダイソンの「ためらい」のことを思い出した。たとえ科学的には虚偽であったとしても「南海トラフ地震」に備えることは善であるから、その地震予知に対して疑義を申し立てることには〈ためらい〉がなければならないのかもしれない・・・そのように考えたのである。このような懊悩をまともな科学者なら感じるべきだと私は考えるのであるが、長期的な観点からは、嘘は結局役に立たないという結論になる可能性もあるような気がする。

「南海トラフ巨大地震」の可能性については、3.11の後に突然降って沸いたように言われ始めて、メディアにおいてはこの可能性は動かし難い事実のような扱いを受けて広まり今日に至る。嘘であれ何であれ、人類が未来に待ち構えているかもしれない危機に備えることが「正しくないことだ」と主張することは難しい。

地震予知に関しては分からないことが多く、学者によっては「すべての地震予知はまやかしだ」とさえ言われていて、おそらくそこまで断定できるからにはなんらかの根拠があるのであろうが、それでも「地震が起きそうだ」という予知・予測には国家予算を動かすほどのインパクトがある。現に、防災の専門家たちが「防災予算が下りなくなる」と反発しているとも書かれている。

東京新聞 9月11日(日曜)第1面

自分には科学的な主張の真偽を見抜くだけの知見も判断力もないが、我々が「科学的」を装った主張に大変弱く、無防備であることを自覚することは今後も似たような科学的予想が実は間違いであったとか、善意による嘘であったとか、そういうことが明らかになるというようなことは起きてくるものと思っておいた方がいいのは確かであろう。

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