「80歳になったけど神様の思し召しで50手前の自分に戻してくれたのではないか?説」に至るまで

 早いもので師走ですね。「今年ももう終わるね。」と毎年の如く呟き、デジャブのようなセリフの自らの加齢を無自覚に過ごしながらも否が応にも現実を突きつける季節が来たなと感じるこの頃。

 もっぱらここ1,2年の年齢に対する思いは、伊能忠敬は齢50にして日本全国を行脚し、地図を作り上げた。これが人生100年時代の今の寿命にも置き換えたら70,80でもまだイケるんじゃないか論を勝手に唱えて過ごしていたのだが、、、最近、それも違うような気がしてきた。

 なんだろうか、ズバリ言ってしまうと自分のどうしようもない部分とか老いとか、感性の衰えを感じないというのが、土台無理な話でもある。どんなに隠しても髪は白くなるし、代謝も落ちる。目の衰えもかなり進んでいる。いくら若かぶろうとしても加齢による衰えを自覚しないほうがどうかしているとも言える。

 「70,80でもまだイケるじゃないか論」の根拠が寿命からの逆算論でもあるのだが、なんか能力の超えたピークの今、無理があるような気もする。サッカーの三浦知良選手はピークを超えた今も尚、プロである水準がな何かは分からぬが契約という形でのプロであり続ける姿勢は頭が下がる思いだが、(なんだかこの記事を書いている間にポルトガルでプレーもあるようだ。)力は若い頃は落ちていることは現実である。

 なので、最近は自分は一回死んだ説、あるいは80歳になったけど神様の思し召しで50手前の自分に戻してくれたのではないか?説が幸せに生きるコツではないか?と思ったりもしている。

 唐突にこう言われてもピンと来ないかもしれないが、自分は一回死んだと思う。言ってみれば、一度鬱になった時に希死念慮的なことに捉われたこともあった。もちろん、本当に自殺したいわけじゃないけど、死んだら楽になるのかな?とか死んだら誰か私のために悲しむ人はいるのかなとか、そんな思いがいくつも過る時もあった。その頃から比べれば、今は当然いい状況であり、おまけのような人生もである。そうだ、おまけの人生なのだから!!そんなに思いつめなくてもいいんじゃないか!だからこその「自分は一回死んだ説」である。

 そしてもう一つの「80歳になったけど神様の思し召しで50手前の自分に戻してくれたのではないか?説」である。漫画ではありがちな設定かもしれないが、人間目線を下げると幸福になる、別に言い方をすれば、何事も当たり前だと思わないというのは一つの幸せのポイントかと思っている。走ったり、きちんと耳が聞こえたり、ご飯を食べれたり、お酒を飲めたり、全ては健康であれば、若い頃であれば何一つ幸せを感じるポイントではないかもしれないが、それが出来なくなった時にすべては幸せの瞬間であり、尊い事だったと知る。だからこその80歳の自分ならば、きっといろんなことが出来なくなっている。そう、それはオナニーやSEXですらだ。だからこその説なのだが、、、いざ、頭で思い描き、実行するとなるとやはり難しい。だって80歳ではないからだ。

 こんなことをあと、何回繰り返すのか?実はこの記事を書くにあたり3日も費やしている。その間、気分の移り変わりもある。ダウナーな時もある。やっぱり、そんな時は寝るに限るなと思う。
 皆さん、辛くなったら一度、寝よう。

宜しければサポートをお願いします。あなたの応援を、私のエンジンにさせてください。