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十一面観音の十一の顔。

今日は11月11日。
こういうゾロ目の時ってなんだか特別な感じがします。
1並びを狙って切符を買う人とか、ブログのタイムスタンプを
その時間にするとか、いろんな楽しみ方がありますね。

仏教で11と言えば十一面観音さまが思い浮かびます。

十一面観音さまは観音菩薩の変化身の一つ。
密教的尊格で、疾病消除などのご利益が大きいとされており
奈良時代から人気があって仏像の数も非常に多いです。


日本の神さまの総本地として挙げられる場合もあります。

また、六道のうちの修羅道を教化する方。
修羅道とは、怒りに満ち猜疑心や競争心に煽られて
心の休まることのない境界。

三毒の中の「瞋恚」は望ましくないものを排除しようとする心。

心に痛みを与えるものに怒りを感じ、それを排除しようとする心を
生命維持に必要な範囲を越えて動かし続ける傾向が強い場合、
それが修羅道に繋がる心となります。

十一面観音さまはその名の通り十一のお顔を持っています。
正面の菩薩の顔のほかに、正面の寂静の3つの顔、
右側の牙をあらわにした3つの顔、左側の憤怒の3つの顔、
そして真後ろに怒りつつ大笑いする1つの顔。

時に優しく、時に穏やかに、時に励まして、時に怒りをあらわにし、
時に愚かさに呆れて笑う。

十一面観音さまはさまざまな感情を示すたくさんの顔で
衆生に相対し、怒りに固着する心を相対化してみせます。

仏さま方は違う世界におられて超然とこの世界の有様を
見ているだけではなく、どこにでも現れて慈悲と智慧をもって
衆生を救います。

修羅道は三悪趣の地獄・餓鬼・畜生よりは少しましで、
自分で仏道の大切さに気づく機会があります。

ですがそのあまりにも殺伐とした世界では
それを教える観音さまもただ優しいだけではなく、
峻厳さや鋭い智慧を示す方でなくてはなりません。

以前十一面観音さまが水槽の水をすくったイメージを見たお話を
しましたけども。

その後しばらくして法友にこの話をしたところ
その水槽の水というのは我々衆生ではないだろうか、
仏さまの手で掬われるということは救済にあずかることだけど
救われるそのときに仏さまのその手からこぼれないように
自分自身もがんばる必要があると教えてくださったのかもしれない、
と答えてくれました。

仏菩薩のお仕事は衆生済度。とはいえ、縁のないものまでも
救うのにはなかなか時間がかかります。

さまざまな巡り合わせによって十一面観音さまに救っていただける
縁に出会ったのに、その手からこぼれ落ちてしまうのは残念です。

この時ももう一回掬って下さったら全部水がなくなりそうなのに
掬い上げてくださったのはただ一回だけ。

慈悲によって行われることでも、そこにはある程度の厳しさというものも
あるのだろうと思います。

その時がいつなのか、それは誰にも予測はできません。
どんなに願っても会える時は会えますし、会えない時は会えません。

でもその千載一遇の機会に出会った時にはしっかりと
その手の中にとどまって掬い上げていただける自分になっておく、
そういう心がけは大切なのでしょう。

十一面観音さまはその透徹した眼差しで
その手の中に残る衆生、こぼれ落ちる衆生を見ておられます。

残念なことに今回はもしその手から落ちたとしても
その眼差しをまっすぐ見返すことができたなら、
次の時には違う自分になれているかもしれません。

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