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嘘も方便というけれど。

今日は観音さまのご縁日。
十一面観音さまをご供養したのですけども、
なぜか昨日、完全に今日は18日!と思い込んで、
しかもなぜか如意輪観音さまの供養法を行なってたのですね。

で、やってる途中でアレ?と気づいて
いや今日17日やん?
しかもいつもなら十一面供するのになんで如意輪供やってんの?
と超「???」という気持ちになったのですが、
途中で止めるわけにもいかず(笑)

なんか不思議な感じでしたよ。

嘘も方便という言葉があります。

これは、仏教には不妄語戒といって嘘をつくのはいけない
という戒律があるけれども
善い結果を得るため、相手や将来のことを考えて物事を
円滑に進めるためには時と場合によっては許されるという意味。

法華経譬喩品にある「三車火宅の譬え」がその起源とされると
いうのが有力な説です。

三車火宅の譬とは、ある長者が家が燃えているのに
中で子どもたちが遊んでいてそれに気づかないのを見て
羊の車、鹿の車、牛の車をあげるから出ておいで、
と言って燃える家から子どもたちを誘い出して
もっと良い大きな白牛の車を与えたというもの。

これは、仏が声聞、縁覚、菩薩の教えを説いて
火に包まれる家にも等しい苦しいこの世界から
衆生を救い出そうとしたということを譬えたものです。

大日経にも
「菩提心を因と為し、大悲を根と為し、方便を究竟と為す」
という「三句の法門」という教えがあります。

これは、衆生救済を行なっている仏菩薩の具体的な姿が
さとりの姿ということ。

さとりを求めて努力する心を起こし
大きな慈悲によって衆生救済を行おうという意志を基礎として
具体的な活動によって衆生救済を現実化すること、
それが究極の姿である
ということを述べています。

このように方便は、
仏さまが衆生を救うために行うものとして重要であり
衆生救済という目的を達するためにあらゆる手段をとる
ということなのですけれども。

そういえばこんなことがありました。

高野山に上がってわりとすぐの頃。
お師僧さまから電話があって、今大学ですかと聞かれました。
その日はたまたま少し体調を崩していて、一日講義があるけど
休もうか、午後からは行けるかなと様子をみていたのですね。

で、咄嗟にご心配をかけてはいけない、と思い
「はいそうです」とお答えしました。
するとお師僧さまはさらに
渡したいものがあるのだけど教室はどの辺ですか、と言われます。

私は内心焦って
「こちらから取りにお伺いします」とお答えすると、
「所用ですぐ出かけなくてはならないので近くにいます。
 ついでなので私が行きますよ」とおっしゃいました。

で、これはもう誤魔化せん、と思った私は
「すみません、ウソつきました。
 体調が悪くて部屋で休んでおります」と白状しました。
すると先生は「おやおや」とおっしゃって
じゃあ通り道なので数分後に降りてきてくださいね
といって電話を切られました。

で、数分後お会いして書類を受け取り、
嘘をついて申し訳ありませんでした、と謝ったところ
にっこりと笑って
「私たちは『嘘も方便』はまだダメですよ」とおっしゃって
元気になってからでいいので懺悔礼拝行をやってくださいねと
おっしゃって去っていかれました。

人情として誰かを心配させたくないためであっても
嘘をついてはいけない、というのが初心の行者である
私へのおさとし。

世間的な感情と、仏道修行における戒律とどちらを
優先すべきかをはっきりと教えてくださいました。

仏菩薩は過去や未来、因果や縁起を見通すことができるので
目の前の人をどのように導けば
その人の智慧を目覚めさせられるかということが
はっきりとわかっています。

ですので「嘘も方便」になりうるのですね。

そういう智慧の働きを体得していない私たちは
良かれと思ってそれを誤ることもあります。

僧侶の戒律には「衆生を傷つけてはいけない」
というものもあります。
なので、不妄語戒を守ることを優先すれば
その誤りを回避することができるわけです。

そのように細心であること、戒律に自分の行動を寄せて
いくことは仏道修行者としての心と行動の姿を作っていく
ことでもあります。

とはいえ、僧侶ではない方は
人のことを思ってつく優しい嘘を全くやめるよりも
人情に従ってもいいかなとは思います。

ただ、仏道修行をしてみようと思っている方は
こういうことに少し気をつけてみるといいかもしれません。

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