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二元論ではない光。

そうこうしている間に2月です。
今年の旧正月は2月1日。
3日は節分で、4日が立春。

実はこの時期、暦の上でのいろんな節目が
多い時期でもあるのですね。

旧正月に初詣するのもいい感じ。

なんとなく光が明るくなって、暖かい感じがしてくるように
なりました。
いろんな暦でいよいよ春間近。
雰囲気が変わって、少し身軽になった感じもします。

まだまだ寒さも続くし、感染症も相変わらず。
しかしまあ、日が長くなってくるとそれだけでポジティブな気分に
なってくるのはなんかいいですね。

キリスト教の聖人や天使は
頭の周りに光の輪が描かれていたり
仏教の仏さまも頭の後ろに輪光や舟形の光背が
表現されていたりしますが
聞くところによるとそういう存在は
本当にそのような光が見えるらしいです。

最近は会ったことある人が少ないと思うので
確かなことは言えないですけども。

人間にもオーラというものがあって、人によって
大きさや強さ、色などが違うそうです。
オーラカラー占いとか、オーラカメラで自分のオーラが撮影
できるアプリなんかもあるようですね。

仏さまは額にある白毫から光を発し、
全身が金色で体からも光を放っています。
これは仏さまや転輪聖王という古代インドの神話上の
理想的な帝王の体の特徴を示す「三十二相」のなかに
書かれています。

白毫から光を発するのは「白毫相」、
全身が金色なのは「金色相」、
体から光を放つのは「丈光相」。

ちなみに一丈は尺貫法だと約3メートルですが、
中国の周の時代では約1.7メートル。
仏典が多く漢訳された唐の時代も約3メートルのようです。

仏さまが光を発しているというのは
仏の三十二相にあるように体が金色で光を放っていることに加え、
仏さまが得たさとりの智慧がそのお体を満たしていることによって
自ずから光輝となって現れるとされています。

仏さまの光というのは、智慧の光なのですね。

ですので、もし現在生きている人の中にさとりを開いて
成仏した人がいたとしても、その人が物理的に光を
放っているわけではないかもしれません。

俳優さんや著名な人について「オーラのある人」という
言い方をしますが、多分そういう感じに近いのでしょう。

大日如来はサンスクリット語では
「マハーヴァイローチャナ」。
摩訶毘盧遮那仏はこの「マハーヴァイローチャナ」の音写です。
これは「大いなる広く照らすもの」「光明遍照」という意味。

お大師さまのご宝号「南無大師遍照金剛」の「遍照」は
ここから来ています。

仏教における光というのは、物理的光学的な光に
智慧を表すメタファーを乗せたものと考えるといいのかな
と思います。

とすると、仏教における光の対義語は多分
「無明」ですね。

無明は十二因縁の第一とされ、真理に暗い無知の状態を指します。
これは一切の苦をもたらす根本的な煩悩の根源。
さとりを開くということは、仏の智慧によってこの無明を
破すること。

無明から老死に至る十二の因果の連なりを観察し理解して
その連なりを切断し最終的に無明を解消することで
さとりの智慧を完成させます。

大日如来の光は、照らしもするが影も作る光ではなく
どのような影もそれによって明るく照らし出されて
くまなく見ることができる光です。
だから「遍照」。

暗いところを照らしてつぶさに見ることで
よく知ることができる。
自分の心の暗がりをまず光で照らす、これも
如実知自心へのプロセスの一つなのでしょう。

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