我が国で起きたテロ
岸田総理を狙った爆弾事件が和歌山県の港町で起きた。総理は無事で、犯人は、漁師さんが捕まえてくれたました。ヒーローです。
演説を聞きに来られた方、警官が負傷したらしいです。
犯人の名前は、書きません。
社会のクズで、殺人者だからだ。1ミリも同情の余地はない。
テロリストには、名前を付けないのが一番いいと思います。生い立ちや思考を理解してあげようとすると変な同情心が芽生えてしまい、判断を謝る恐れがあります。
昨年起きた、安倍元総理の遭難事件についても、奈良県警や警察庁の保身からなのか?犯人が宗教2世である気の毒な境遇にあった話、さらに自民党から立憲民主党の辻元清美さんまで様々な政治家と統一協会の関係性がスキャンダラスに報じられ、選挙におけるテロ対策について法整備など政府も立法府もなに実効性ある対策をしないまま、統一地方選挙に突入してしまいました。
ところで、裁判所や検察庁に行くとき、入り口では、空港並みの厳格な手荷物検査が行われます。役所は自分たちを守る術として、金属探知機+手荷物検査を実施しています。
これを、聴衆にやらないのは、安全を過信しすぎた異常なことです。
警鐘を鳴らしても鳴らしたりないので、我が国では、どんなテロが今まで起きてきたのか?ざっとネットで公開されている情報やウィキペディアに出ている事例をもとに考えていこうと思います。
終戦後のテロの歴史については、警察庁のサイトによくまとまっているのでリンクします。
ここでは、日本人がやらかしたテロ、日本人が犠牲になってしまったテロがいろいろ書かれています。
しかし、我が国のテロについて考えるにあたっては、もう少し昔を知る必要があるかもしれません。
日本がまだ江戸時代だったころも、どうしようもない人たちがテロを起こし、同情を集めた事件があったのでこれから書いていこうと思います。
江戸時代のテロは、主に幕末に集中したのですが、でも、江戸時代のテロで一番有名なのは、忠臣蔵だと思います。
ざっくりいうと、塩の作り方について卓越した知見を持つ赤穂藩の藩主が、教えてほしいと言われ断ったことをきっかけに吉良上野介に意地悪をされ、気が狂って、吉良を殺そうと江戸城内で刀を抜いて捕縛されました。結果、藩主は切腹、赤穂藩は改易された事件が発端になります。
旧赤穂藩の侍たちは、忠義のふりをした就職活動を行います。それが吉良上野介を打ち取り、殿様の敵を討ったというストーリーに仕立て上げられ、就職活動がうまくいけば、めでたかったが、世の中そんなに甘くないのが常です。
関与した人たちは、死刑になりました。
預けられた大名の屋敷で切腹させてもらえたのがせめてもの救いだったと思います。
詳しくは、ウィキにいろいろ出ているので、寄付をしてから見てあげてください。いろんな方が書いておられるため、諸説入り混じってる感がありますが、幕府は、結果、テロに対し毅然とした態度で処罰をした印象です。
この事件を題材にしたお芝居が忠臣蔵です。1701年に内匠頭が吉良に切りかかって、50年近くたってからお芝居は、公演されました。
討ち入りのすぐ後にも、この事件をモチーフにしたお芝居が公開されていたようですが、たぶん幕府に遠慮して、南北朝時代のストーリーとしていろいろいじられて様です。
このお芝居の歴史もウィキに詳しいです。
たぶん、元禄時代は、絶対に偉くなれないことはないし、金持ちになれることもない時代でした。武士は、永遠に武士で、庶民は、永遠に庶民でした。庶民は、武士に期待をし、尊敬したいと思っていたと思います。
しかし、家康さんがつくった紛争を未然に防ぐ政策で、世の中は、平和でした。
そんな退屈な世相で起きたテロになにか意味を見出したくて、お芝居にしてみんなで楽しんだんだと思います。
しかし、為政者の幕府の態度は、結果としてですがテロを許さない毅然としたものだったと思います。
その点が、そのあともながく江戸幕府が続いたうまい統治なんじゃないかなと思いました。
時代はずんずんと進んで、幕末にはたくさんのテロ事件が起きました。しかも、政権交代を目指すものです。テロリストが、結局政権を奪取して、力により正当性だけでなく正統性まで奪ったのが明治維新と思います。
一番大きな事件は、1860年に起きた桜田門外の変です。当時の首相が切り殺されました。襲ったのは、水戸藩のOB+薩摩の人。殿様に迷惑をかけないために、脱藩して殿さまのために首相を殺しに行きました。
ウィキに詳しいです。
我が国は、鎖国政策を反対派から見ると首相の独断で開国に変更しました。それに対する抗議の意味を込めての暗殺だったと思いますが、シンプルではない。井伊直弼の剛腕ぶりに対する随所からの恨み、彦根藩と水戸藩の水利権をめぐる対立、水戸藩主の国防論などをうるさく思って閑職に追いやった首相への恨み、天皇のお気持ちを汲んで開国を決定した首相への恨みなどなど。もっといろいろな要素があると思います。
このテロ事件の結果、幕府は、毅然とした態度で臨みほぼ全員を捕まえて処刑しました。切腹でなく牢屋で斬首されたものが多かったことから、幕府はテロに対し毅然とした態度で臨んだと思います。
しかし、首相の命も守れない幕府は、結局威信を失ったと思います。この前の和歌山での岸田総理暗殺未遂事案でも、犯人の間抜けさ、岸田さんの幸運、漁師さんのファインプレーでかろうじて岸田さんは助かりましたが、あやうく2年連続で大切な日本のリーダーを狂人の凶行で失うところでした。
ほかにも、たくさんのテロ事件が起きました。幕府は、新選組とか見回り組など今でいうSWAT+映画に出てくるCIAの暗殺チームみたいな部隊を使って潰しにかかりましたが、潰しきれなくなってしまいました。
理由は、たくさんありますが、それは、長くなるのでちょこっとだけ。
イギリスの総理大臣、外務大臣だったパーマストンの実質的な長期政権でイギリスは、今のアメリカよりもつよいスーパーパワーになってました。あと、アメリカでは、南北戦争が終わった後、大量の武器が余ってました。幕府は、開国をしてしまいましたが、ずるいイギリスの極東政策、暗躍する武器商人たちの売る武器のすごさを見誤ってしまいました。
当時、幕府は、決して無知だったわけではありません。オランダが年に1度は世界情勢をかなり正確に報告してくれていたからです。鎖国していても、オランダが外国の事情を色々伝えてくれていました。
しかし、幕府は、フランスとくっついてしまいました。
反政府側は、イギリスとくっついて、いい武器をたくさん手に入れることになりました。
あと、天皇をうまく取り扱ったのが反政府側でした。
結局、たくさんのテロ事件がありましたが、テロリスト側が、気づいたら官軍となって、幕府と佐幕勢力は、負けてしまいました。
そこから、まだまだ、テロの時代が続きます。明治維新後の話です。
明治維新で活躍した人のなかで有名な西郷隆盛は、テロというよりも内戦に担がれて死んでしまいました。
また、明治維新で一番偉かった人は、たぶん大久保利通ですが、志半ばで殺されてしまいました。
凄くシンプルに考えていきます。明治政府では、薩長土肥のうち薩摩、長州以外の藩閥は、だんだん干されました。その結果、干された人と佐幕側だった人は、政府に使えるのではなく反政府側に行きます。
ここで、反政府とは、新聞などメディアと自由民権運動(選挙権をよこせという運動)です。
大衆をたきつけ、自らが先頭に立って運動する彼らは、狙われる意味でテロの犠牲者(板垣退助)でもあり、主張が認められないと実力行使に出る意味でテロリストもいました。
民選議院設立建白書から、大日本帝国憲法ができるまでたくさんの闘争がありましたが、徐々に明治政府は、落ち着いてきます。
外国から知識技術の輸入に成功して庶民が体で感じるほど国力が増し、日清戦争、日露戦争などで国がまとまった側面もあったかもしれません。
その後、大正時代までは、比較的国内は、穏やかでした。大正時代後半には、安田財閥の創業者や総理大臣の暗殺事件が生じました。
事態がおかしくなり始めるのは、学校の教科書でいう「軍部の台頭」とされる時期です。
ここでいう軍部とは、実は実態は、なにもありません。
大本営なのか?天皇なのか?末端の軍人なのか?敗戦後後付けで、日教組など共産主義者の影響で「軍部」って言葉は、作られた言葉なんじゃないかなと思います。
515事件、226事件が有名です。ほかにも血盟団事件。
大正時代に、慣習的に衆議院の第一党が政権を取ることになりました。当時の憲法下では、天皇のもとで首相は、同輩中の首席であったけれども。憲政の常道がほぼ確立されたと思います。
昭和になってもそれは同じはずだったのですが、世界情勢がおかしくなります。1929年の世界恐慌です。
1918年に終わった第一次世界大戦では、戦争に参加しつつ、おいしいところだけ我が国は、得ることができました。勝つがわにいたし、貿易でも儲けた。さらに、南洋諸島や中国への権益も得た。
しかし、世界恐慌に巻き込まれ、社会は、企業倒産、貧乏風が吹き荒れました。
時代が乱れると、テロが起きるような気がします。江戸末期、日本が開国をしてすぐに乱れが起きました。
1860年以降の日本で起きたテロ事件を振り返ってみようと思います。
ウィキペディアに暗殺の被害者が検索性よく出てきましたので、コピペします。
井伊直弼 (1860) - 桜田門外の変
吉田東洋 (1862)
島田左近(1862)
佐須伊織 (1862)
井上佐一郎(1862)
本間精一郎(1862)
宇郷玄蕃(1862)
目明し猿の文吉(1862)
渡辺金三郎(1862)
多田帯刀(1862)
森主税(1862)
村上真輔(1862)
塙忠宝(1862)
宇野東桜(1863)
池内大学(1863)
賀川肇(1863)
殿内義雄(1863)
清河八郎 (1863)
芹沢鴨 (1863)
姉小路公知(1863)
中島名左衛門(1863)
中根市之丞(1863)
松井中務(1863)
鈴木重胤(1863)
中根長十郎(1863)
冷泉為恭(1864)
内山彦次郎(1864)
平岡円四郎(1864)
佐久間象山 (1864)
中山忠光 (1864)
阿比留嘉助(1866)
真木菊四郎(1867)
淵上郁太郎(1867)
武田観柳斎(1867)
原市之進(1867)
赤松小三郎(1867)
中岡慎太郎 (1867) - 近江屋事件、事件2日後に死亡。
伊東甲子太郎(1867)
松濤権之丞(1868)
世良修蔵 (1868)
横井小楠 (1869)
大村益次郎 (1869)
広沢真臣 (1871)
大楽源太郎(1871)
伊藤野枝 (1923) - 甘粕事件
団琢磨 (1932) - 血盟団事件
武藤山治 (1934)
高橋是清 (1936) - 二・二六事件
渡辺錠太郎 (1936) - 二・二六事件
松尾伝蔵 (1936) - 二・二六事件
本多延嘉 (1975) - 中核派書記長内ゲバ殺人事件
永野一男 (1985) - 豊田商事会長刺殺事件
坂本堤 (1989) - 坂本堤弁護士一家殺害事件。同居していた妻子も殺害された。
丹羽兵助 (1990)
五十嵐一 (1991) - 悪魔の詩訳者殺人事件
山口剛彦 (2008) - 元厚生事務次官宅連続襲撃事件。夫人も殺害された。
ウィキペディアは、年々充実していますが、漏れもあるかもしれませんがそれでもいやになるくらい多くの人が刀、銃、爆弾、あるいは、こん棒で殺害されました。
この人たちが、天寿を全うし、成し遂げようとしたことを成し遂げていたらば、世の中はだいぶ違うものになっていたかもしれないと思うと、本当にもったいないことです。
また、暗殺未遂や、歴史的な建造物の破壊、有名人ではない人が巻き込まれて亡くなった事件も含めて考えると、恐ろしい数の損害を生じさせます。
19世紀だけでも、たくさんの馬鹿や野心家がいろんな人や物を狙って、大暴れしています。あとから、大成した政治家になった人も犯人の中にはいますが、たいていの人は、ただ、社会に自分では責任を取り切れない大迷惑をかけただけです。
ここからの情報は、ウィキペディアをざっくりコピペして手を加えましたので、ウィキを書いた大勢の方の見方がいろいろな角度で交差する記述になるかもしれませんが、なるべく事実にだけ焦点を当てます。
では、19世紀の我が国で起きたテロをちょっと見ていきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?