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「わかりやすさ」ばかりを追い求めない

文章術の本を読んでいると、「中学2年生が読んでもわかるように書け」といった類のことをよく目にする。文章とは、何か伝えたいことがある前提で生まれるものだ。伝えたいことが、伝えたい人に伝わらなかったら文章は存在意義を失う。それはただの語の羅列だ。

世の中で売れている本、特にビジネス書は、この法則を守っていることが多い。マーケティング戦略をいくらしっかり立てても、読者が最後まで読み切れなければ、本の価値はなくなり、ちょっとした詐欺にも思える。

売れているビジネス書は、背景知識や知っている語彙の量のせいで読めないような古典や思想を、わかりやすく噛み砕いて整え直しているがゆえに、一般常識があればすらりと読み切れることが多い。

わかりやすい例をあげれば「もしドラ」(ちょっと古いかもしれない)がそれに当たるだろう。ドラッカーの書いた分厚い、専門家でなければ読まないような本から、そのエッセンスだけを抽出してわかりやすいストーリーに載せることで、大衆に受け入れられるようにする。ウイスキーをストレートでは飲めないけど、ハイボールにしたら飲めるようなものだ。

ドラッカーの原書のようなわかりにくい本は、読むのに時間がかかるし、本一冊読破するために別の本を読んで勉強しなければならなかったり、自分の中に腹落ちするまで中々の時間を要する。忙しい現代において、”コスパ”が悪い。

哲学書なども同じだ。例えば、プラトンやアリストテレス、ソクラテスなどギリシア哲学の本は一筋縄では読めない。僕も何冊か持っているが、悲しいことに積ん読の山の中にひっそりと埋もれてしまっている。抽象的な概念が多く、読むことに集中しなければ、内容が全く頭に入ってこない。電車の中で気軽に読めるものでも無いので、中々手出しもできない。

しかし、わかりやすい本ばかり読むというのはどうなのだろう。具体的かつ直接役に立つものばかりに触れているのは、消化の良いものばかり口にしているのと同じだ。噛む力、消化する力が衰えてしまっては、食べたくても食べれないものが出てくる。すると、自分の世界が徐々に狭くなっていく。

抽象的な文章を読むのが難しいのは、自分の中で具体化するプロセスがあるからだ。「ここで言っていることはきっと自分が体験したあのことと同じことを指しているんだろう」と、何回も噛まないと飲み込めない。そこで諦めず何度も何度も噛んでいると、ついに消化できる粒度となり、自分の血肉となる。

すると、今度は自分のものとした抽象化された概念を使うことで、再度わかりやすい本を読んだ時に「これって抽象化すると、別の本で書いてあったことと構造的に同じだ」とアイデアを拡張することができる。同じわかりやすい本を読んでも、読後に得られる知見は全然違うだろう。

即効性の無い本は目の前のことに集中していると手を出しづらいが、そこで一息踏ん張ることで、後々役に立ってくる。思考の筋トレだと割り切って、たまにはわかりにくい本に手を出してみると、世界がもっとわかりやすくなるだろう。

狭い世界でくすぶるより、広い世界を知っている方が、きっと人生楽しいだろうから。

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