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沈黙はとくに居心地の悪いものではなかった

来客用のベッドと言ってもリビングの奥にパーティーションを立てた程度。
もうそろそろ起きた頃かなとそっとリビングを覗くと、ソファに移動して眠っていた。

「だって暑いし」

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「今日は何しよう」と二人でソファに座ってもう2時間になる。その間ずっと窓の外を眺めてた。ここに引っ越してきて初めての夏。部屋を借りるときの条件は大抵いつも同じ優先順位だった。これまで二の次にしていた眺望に恵まれた最上階の部屋に住んだのは初めてだ。

高台に沿って勝手な方向にいろんな建物が建ってるのは昔の大名屋敷の名残だとブラタモリで知った。この雑多な風景が気に入ってる。
「これなら画を飾らなくても済むものね」その発想はなかった。見慣れた穏やかな風景はこの季節特有の熱を帯びていた。

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「あそこ、あんな工事してたっけ」と言うので初めて気づいた。引っ越してきて一年近くずっと空き地だったところに重機が入ってる。工事が始まるのだろう。

こんなとき大抵、何ができるんだろうね、で話は終わりそうなもんだけれど、そもそもあの場所に元々何があったんだろうという疑問が沸いた。

こんな一等地の広大な場所。病院か学校か。
住所くらいしか材料がなかったけれど、推測してググるのは楽しかった。やがてその場所が『厚労省関東甲信越厚生局』であったという確信によるささやかな達成感を得ることができた。どうやら本庁はさいたま新都心に移転したらしい。ここに引っ越してくる前の話だ。

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ところで『厚労省関東甲信越厚生局』って何さ。
ググると麻薬取締を司るような場所だとわかった。

1980年1月16日──。厚生省(当時)の麻薬取締官らは日本公演のため、成田空港に到着した元ビートルズのメンバー、ポール・マッカートニー(37)=当時=を大麻所持で逮捕、東京・中目黒にある関東信越地区麻薬取締官事務所に連行した。

ポール・マッカートニーが収監された場所だったと知る。
当時のニュース映像のアーカイブも見ることができた。

ソファに座ったままで思考がどんどん連鎖していくインターネットすごい。あの日、建物の周りには300人のビートルズファンが集まり深夜まで『イエスタデイ』を合唱していたという。何故『イエスタデイ』?

じゃあ、久しぶりにビートルズでも聴こうか。
『Because』が流れた。そこは『イエスタデイ』じゃないんだ、と彼女は笑った。アビイ・ロードに入ってた曲だね。でもお気に入りはシルク・ドゥ・ソレイユの演目『LOVE』でのサントラバージョンだった。

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「当時イエスタデイの大合唱って、きっとここまで聴こえたでしょうね」「間違いない。ただしここが1980年より前に建ってたとしたらね」

そして調べようとしてたどり着いた不動産情報のページで、ここが1978年に建ったことよりももう少し興味深い情報を見つけた。

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このマンションには下にもっと手頃なワンルームの間取りもあって、4部屋も空いていることを知った。

「ここならわたしでも借りられるかもしれない」と彼女は僕に告げた。

「わたしたちがこの先どうなるかわからないけれど、長い人生でひとつ屋根の下に住んでた時期があったってのは素敵でしょ」

「だったら、そのときはうちのWi-Fi使っていいよ」と笑った。

彼女は肩をすくめた。

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名前のない関係が、もっと劇的な友情の瞬間を創り出そうと言う気ぜわしさにとって代わっていく。僕らもそのような段階に達していたのだろう。

午後の光が徐々に薄らぎ夕暮れの気配に変わった。その後に続いた沈黙はとくに居心地の悪いものではなかった。

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それから彼女には会ってない。
次に会えるのを楽しみにしてる。

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