【短編】卵
ちょうど、オムライスの上にケチャップで文字を書くみたいなことなんだろう。
文字を割くようにスプーンを入れて、一口頬張る。
子供っぽい、知ってる味だった。
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待ち合わせ時間ぴったりに彼女は来た。
肩まで伸ばした黒髪に、涼しげな水色のワンピースがよく似合っている。
「じゃあ行こうか」と、僕は彼女に促した。
食事。散歩。ウィンドウショッピング。
手は繋がない。この共犯関係には、いくつか超えてはいけないラインがある。
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彼女は笑うとき、目を逸らす癖があった。
困ったように、申し訳無さそうに笑う。
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行為のあと、物音のしなくなった部屋で、彼女は僕に呪いを語る。
「愛してる」だの「あなたの子供が欲しい」だの、ああだのこうだの。
もちろん僕は寝たふりを続ける。受け取らない。何も知らない。
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茹で卵を生卵に戻す実験が成功したらしい。
癌治療に応用できる可能性があるとかで、注目を集めているそうだ。
なら関係性はどうだろう。茹だった脳はどうだろうか。
不可逆性は、どこまで担保されるのだろう。
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僕は煙草に火を付ける。彼女の前では吸わない。
彼女の前では、彼女のための僕になる。
僕は彼女の名字を知らない。向こうだってそうだろう。
人生の、ほんの少しの余白を重ねている。それだけの関係だ。
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行為のあと、彼女は僕の腕の中で夜を迎える。
そしてお決まりの呪いを語る。「愛してる」だの「あなたの子供が欲しい」だの。
その日、僕は初めて薄目を開けてみた。その間抜けな顔が見てみたかった。
彼女は真っ直ぐ僕の瞳を見つめていた。笑っていた。
彼女は笑うとき、目を逸らす癖があった。はずだった。
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ちょうど、オムライスの上にケチャップで文字を書くみたいなことなんだろう。
気づかないうちに飲み込んでしまう。
何が書かれていようと味は同じなんだけれど。
それでもその言葉は、僕の腹に、胸に溜まっていく。
「愛している」の言葉は、硬く彼女に紐づいていた。
誰に言われても、決まって浮かんでくるのは彼女の顔だった。
あの、真っ直ぐ見つめる瞳の奥の、一切を飲み込む底なしの黒だった。
僕は彼女を愛していない。
でも彼女の呪いは、確かに実を結んだらしい。
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