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「さまよう欺瞞」20'1013の日記

出先で歩いていたら、知らない中学生に挨拶された。

・下校中だったのか自転車に乗りながら、擦れ違いざまに「こんにちはっ!」と一言。あまりに一瞬の事でリアクションを取る間もなく、彼は遥か後方へと走り抜けていった。

・まず咄嗟に「しまった、返事が出来なかった」と思った。そして直後の2秒間に、以下の順番で次々に思考が浮かんできた。

1.「先生に"住民に挨拶をしよう"って教わったのかも」
2.「もしかして自分が不審者に見えたのだろうか」
3.「そうだとすれば、変に警戒させて申し訳なかったな」
4.「何処かで会った子だっけ?いや、覚えが無いな」
5.「元気がよかったな、活発な子なのだろうか」
6.「あの少年に何か良い事があればいい」
7.「にしても急に声かけられるの、心臓に悪いから迂回しようかな」

ここまで考えて「あっ、僕は考え事をしている」と自覚し、オートモードの思考は中断された。次に、改めて何を考えていたか思い出して分析し、少しだけ自己嫌悪に陥った。

・特に何処で落ち込んだのか言うと、6番目の「あの少年に何か良い事があればいい」と考えたことだ。ここに自分の人格の捻れが現れているように思えた。自己矛盾と言ってもいい。

・できるだけ僕は、自身が「善い人である」と他者に思わせたくない。これは僕の中でもかなり強い拘りである。自分の本質(≒思考回路)は悪人寄りである自覚があるし、関わりを持ってしまった人を失望させるのは互いにとって損だから。コミュニケーションや社会との接点を維持する義務を放棄したいとも言える。内罰的な怠慢と怯えだ。

・上の一連の文章も「それを自分から言う、逆に善い人」を演出するような意図は全く無い。厨二病をこじらせていると思われるならそっちの方が良い。正解だから。

・そして。そんなことを考えているのに、無意識的に、反射的に、いつも僕は善人であるかのように振る舞ってしまう。しかも時として、思考という形で己に対しても。かつて僕は、全てのものを愛することで自己救済を試みたが、完全に失敗した経験がある。その残渣が染み付いているのだ。

・僕は過去二回、価値観が大きく変動している。どちらも自分の意思では無いから事故みたいなものだけど。自衛のために全てを肯定するようになり、それも通用しなくて全てから距離を置くようになった。後者は最近のものだから、まだしっかり定着していないのだろう。

・人格(スタンス?)が勝手に書き換わって、それに翻弄されている。もうどの思考が本来の自分に近いか分かったものではない。

・6番目の思考に落ち込んだのは、二重の自己欺瞞と改めて向き合ってしまったからだ。咄嗟に出てきたのは素の自分ではなく、ひとつ前の価値観である過剰な善性だった。

・ずっと前の僕なら何を思ったのか、全く想像がつかない。今の自分を象っているのは機械的な良心と未練がましい諦観で、どちらも後から備わったものだ。「さまようよろい」みたいな感じで、中身を覗いたら空っぽかもしれない。



・僕は挨拶ひとつでここまで凹む事が可能だ。凄いだろう。

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