(まとめ)シューホフ 1-9「晩年のシューホフ」
晩年のシューホフ
シューホフはソビエト連邦共和国の新政治体制における産業政策において帝政期以上に影響力を増すようになった。彼は帝政期含めたこれまでの成果が評価されて1918年以来、ソ連政府の中心的テクノクラートとなった。彼は1927年に、「石油工学のための国家計画委員会」のメンバーとなりました。
79歳でシューホフは、彼の若いころからパイプラインをはじめとしする石油関連技術に対する集大成ともいえる「ソヴィエスキー・クレキング・プラント」をバクーに1932年に建造しました。これにはシューホフ自身が最初の数週間現場を監督しました。この試作プラントはその後数回建て直されました(註1)。そして晩年、彼はこれまでに取得したすべて特許に対するすべての権利をソ連国家に与えました。
シューホフの事業は国民と政府に広く受け入れられることとなりました。1928年にはソ連科学アカデミーのメンバーに選出されました。(後にアカデミー名誉会員となる)また彼は2度「労働の英雄」という賞を与えられました。またシューホフは最初のレーニン賞のひとりでもありました。1927年にはシューホフはロシア執行委員会に任命されました。またモスクワ市議会に2度、選出されました。
彼の最後の研究は、建築遺産の保存でした。ソ連邦が成立して以来、歴史的建築物の保存と修復の活動を行ったエンジニアはほとんどいませんでした。しかし、スターリニズム期に入ると、過去の偉大な建築遺産の保存が盛んに求められるようになりました。
当時、塔が斜めになることはピサの斜塔に限らず、いくらでもありました。15世紀におけるサマルカンドの有名な神学校(祈りの学校)のミナレットもそのひとつで、地震によって歪みや崩壊の危険にさらされていたされていました。これは15世紀の天文学者ミズラ・ウルグベクによって建てられたものであるとされていました。1932年、塔を救うためのコンペティションが大々的に始まりました。
シューホフは、石造りの塔は引張には弱いためか、または動かすことを想定されていないために曲げに弱いために、塔を持ち上げようとせず、反対側を下げるほうが良いという提案をして採用されました。この仕事は、彼の計画とリーダーシップのもとで成功しました(註2)。
彼は1939年2月、死亡しました。彼はノボデビッチ修道院(モスクワの有名人が多く埋葬されている墓地)(新メイデン)に埋葬されました。
以上で、シューホフの人生について全9章に渡るまとめました。翻訳や研究が稚拙でかつ、芸術文化学部の論文をまとめたものであり、建築家による査読は受けていない文章であるので、その点はご了承ください。
(註1)これらのプラントは、レントゥーロフの油彩画にも多く描かれている。
(註2)[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)150ページ
(註3)[Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)104〜109ページ
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