(まとめ)シューホフ 1-8「ラジオ塔-電化プロパガンダのメディア」
シャボロフカのラジオ塔
レーニンの電化計画(ГОЭЛРО計画)に伴って送電線、電話回線、送電塔の建設が重要視されるようになりました。1922年3月1日、シャボロフカ無線送信所が100キロワットの出力で運転が開始されました。それは6つの双曲面ユニットから成るシューホフ・タワー(高さ150メートル)によって構成されていました。当時、ヨーロッパ諸国やソ連各地の共和国との恒久的かつ信頼性の高い通信のための強力なラジオ局が求められていました。
しかし、その高価な建設費用には批判がなかったわけではありませんでした。まだラジオの技術も一般的ではなくその必要性にも疑念がありました。 そうした中で、モスクワのラジオ局シャボロフカ(シャボロフカは地名)の送信塔は1919年7月30日に「労働者と農民防衛評議会」の代表レーニンの直接指示下において採択されました。
これを受けて「郵政と電信のための人民委員部」は西側諸国とソ連各地の共和国との間で信頼性と耐久性のある通信を確保するために「モスクワに、最短時間で、最新の設備と機械を備えた、放送局を確立する」ことを指示しました。すでにシューホフは1919年2月28日に9段からなる高さ350メートルの双曲面無線通信塔のための独創的な設計を提出していましたので、シューホフは「郵便と電信のための人民委員部」で自身の設計案と組み立てプロセスを発表することができました。
しかしこの間、鉄が不足していた(内戦および復興)ために、同じ年の7月に、レーニンは、この建設計画の縮小である150メートルの高さのタワーを労働者と農民防衛評議会令に署名しました。さらにその間に、モスクワで必要な合計240トンの鋼材が入手できなかったことが判明しました。タワーの建設責任者F.P.コバールと政府の建設委員会の委員長であるA.M.ニコラエフは、スモレンスクの軍の備蓄から建設用の鋼鉄を譲ってもらうためにレーニンを訪ねました。そして、この提案について、ソ連人民委員会議でレーニンは、必要な鋼鉄の量を提供することを決定しました(註4)。
そうした経緯で、1919年の秋には建設工事が始まりました。このタワーは給水塔などで利用された双曲面ラティス・タワーの開発を踏襲し、それを縦に6つの対応する部分を重ねることで構成されていました。この構造により、新しく、簡単な組立手順として(「伸縮方式」または「テレスコープ工法」)が可能になりました。まず、塔の最下部で次のセグメントが地面で組み立てられました。次に、これらをタワーの最上部分に5台のシンプルな木製クレーンを設置して、つぎつぎと引き上げていきました。建設工事は順調に思われましたが、1921年6月におそらくは部品の誤差の原因(註1)により、高さ75メートルの第4のタワー部分から崩壊し、すでに下で完了していた第5及び第6の部分が破壊されるという重大事故を引き起こしました。(けが人などはわかっていない。)
それでも1922年3月中旬には完成しました。タワーはロシア内戦による資源不足と建設中の重大事故という大きな苦難の上に建てられた。これにより、国内外の遠隔地でモスクワからの放送を受信できるようになりました。シューホフ・タワーはその後長い間、ロシア(ソ連)でもっとも高いタワー(註2)となりました。
元の計画案(1919年2月の350メートル案)の経済性についてパリのエッフェル塔や東京タワーの建設と比較すると、シャボロフカのタワーの重量は約2,200トンであり、エッフェル塔(305メートル)の重量は8,850メートル、東京タワー(330メートル)の重量は4,000トンでした。これらの3つのタワーの重量を比較すると、シューホフ・タワーがいかに軽量であるかがわかります。(註5)。
シャボロフカのタワーの建設は大きな影響を呼び起こしました。モスクワの詩人マヤコフスキーは「エッフェル塔との語らい」において「タワー/あなたは蜂起を率いるつもりか?/タワー/私たちは/指導者となることを選ぼう!/彼女のために/機械化時代の模範/ここに場所はない、私たちはモスクワへ行こう!/私たちと一緒に/モスクワへ/それは遠方だ!」とエッフェル塔からモスクワのラジオ塔を意識した詩を残しています。
ヴラディーミル・クリンスキーは「ラジオ革命のトランペット」と題するポスターデザインを制作しています(あまりタワーの双曲面構造は反映されていない)。
アレクセイ・トルストイはこのタワーに触発されて、小説「技術者ガリンの双曲面構造」1926年を執筆しています。
ニコライ・クズネツォフは「青い空に、150メートルの高さでは、広い草原が見渡すことができる、風に強い上空の雲にまで、送信タワーは育っていった。それは封鎖戦争を押し進め、私たちの労働者の肩によって、これらの巨人は、モスクワに建設された。」と記しました(註6)。
数十年の間、モスクワのコミンテルンのシャボロフカの送信所の有名なシューホフ・タワーのシルエットはソ連ラジオ放送の歴史的象徴であり、切手のイメージにも活用されました。シューホフの建設的なパフォーマンスは今日においても近代建築の代表的なものである。以降も現在に至るまで塔は適切に保存(註3)された。1922年、シューホフはシャボロフカのラジオ塔の建設でレーニン賞を受賞しました。
ニグレス送電塔
シューホフは1929年に計画したのち、ロシアのГОЭЛРО計画の一環として、丘上の2つの送電線のための4つの送電塔を立てました(1989年時点において稼働し続けている)。この送電線は150キロワットの電力をニジニ・ノヴゴロド地区に電力を供給しています。それらの高さは3階立てのタワー(高さ60メートル)と5階建てのタワー(高さ120メートル)です。それらのタワーは風の負荷、張力、ワイヤーの重さ、冬の凍結をしのいで、安定性を保持しています。しかしながら、現在は独創的な双曲面デザインの送電塔は新規建設はされていません。それでもこの特徴的な軽量かつ繊細なタワー華麗なデザインはシューホフの建築の傑作です(註7)。
註1.詳しくはわかっていない。計画の前倒しと急速施工に際して、現場の安全管理が後回しにされていたのかもしれない。
註2.クレムリンの鐘楼は80メートル、ペトロパブロフスク聖堂の18世紀初頭に建造された塔は122メートル、15世紀のリガの聖ペテロ教会は136メートル(現在は69.6メートル))1919年に、タトリンは第三インターナショナルへの記念碑を設計し建てるようと依頼された。(高さが400メートルであった)
註3. 25年後の1947年、2種類のアンテナを取り付ける際、塔の200箇所の接合部をチェックする機会があったが、腐食は全体の5%しかなかったという。1970年に新しいアンテナを取り付ける必要が生じ、1973年にロッドの計算を再度したところ、鋼鉄の部材の10パーセントに腐食が確認された。
註4. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)92ページ
註5. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)17ページ
註6. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)17〜19ページ
註7. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)19ページ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?