(小説)砂岡 2-4「古本屋」

「ちょっとママ、行かなくちゃいけないとこあるから。」
真剣な眼差しを向ける。

私はママにスマホを渡す。

「どこに?」具体的には聞かない。
「….」

「どうぞ。」
「鍵、わたしとくわ。」

そういうと、カバンからキーカードを取り出す。
「いいよ。自分の持ってるから。」

「そんじゃ、ごめん。仕事でしばらく出るから。おばあちゃんとこ行ってね。」 
そっか。寂しいのはママだけじゃないのに。そんなに心配いらないと思っている。

まったく…

と、言うわけで、広大なマーブル市の地下迷宮に、わたしひとりがぽつんと残された。

 外は砂嵐。公園にも行けない。この閉塞感なんとかならないだろうか。妹なら、何か解決策でも知っているのだろうか。ここに、また土竜が現れれば、せめてこのコンクリートの壁を注視せずに済むのに。どこからか入ってきた砂や微粒子や塩が壁と床の間に溜まっている。小学生のころ授業で空から飛んできた塩の粒子や砂の粒子を顕微鏡で覗いたことがある。それらはひとつひとつがとても個性的な形をしていて、幾何学的でとても美しいものなのだと知った。側溝にこびりつき、淀んだこうした粒子たちもきっと美しいものなんだ。

どうしよう。なんか・・・すごく寂い・・・。


「本屋さんでも行こうかな。」

わたしのつぶやきに通行人が振り向く。
通行人対して、にっこっとしてみる。
通行人は見なかったことにしたようで、無視して通過した。

「わたし、独り言多いかな。」

彼女と「別れて」以来だろうか。

そんなことは考えないことにした。

「やぁ、地下鉄は好きかい?」

 まぁ好きだ。壁に書かれた落書きに心の中で返答してみせる。ママの出版社の近くの駅から地下鉄に乗り込み、西へ向かった。帰宅するということも考えたが、せっかく市街地まで降りてきたのだし、本屋でも見て行こうとおもった。普通の本屋に行くとママの書籍に出会いそうなので、古本屋に行こうと思った。

別にママの書籍が嫌いってわけじゃないけれど、今は出会いたくない気分だから。

 わたしが降りた駅は旧市街の近くだ。昔からここには街があったようで、見た目ではわからないが、この辺りの地下は天井が低く、入り組んでいる。つまり、かつてのカナードを改造したものなのだ。

 古本屋というものは実に奇妙な空間である。

 個々人の嗜好が最大限に試させることは言うまでもないが、それにはときに、かなりのリテラシーが必要になるのだ。リテラシーとおいうのはインターネット用語であるあのリテラシーだ。ネットのリテラシーを一言で言うなれば、「情報の取捨選択能力」とだろう。そして、肥大した情報の海では、取る能力よりも捨てる能力のほうが必然的に大事になる。SNSなどがそうだ。あの大量に流れる情報をひとつひとつ読み解くなど不可だ。よって使用者はいつも何を捨てるべきかという選択を常に行っている。それは、ある風景を見たときにどこを見るか?が、その風景のすべてであるという認知という作用に近いものだと思う。古本屋の風景から、何を認知するか。逆に何を捨てるべきかで、見え方はだいぶ変わってくる。1年前に寄ったときといま寄った時では、本に出会うための目が異なる。

だから、古本屋は楽しい。自分の変化に対してとても意識的になれるのだ。

 古本屋は昔のカナードにできた大きなくぼみに点在している。数えたことはないが、20〜30はあるのではないか。そのひとつに行き着く。入り口は少し下がったところにあり、蛍光灯の白い光が眩しい。昔のカナードとはいえ、たびたび修復が行われているから崩壊しているわけでもなく、掃除も行き届いている。階段を降りて近づくと自動ドアが開く。多くは老人。学生もちらほら。近くに大学が多いためだ。大学が多いから古本屋が多いのかというと、にわとりと卵だろう。

 ランボーの詩を手に取る。これは自分が前にこの古本屋に売ったものだ。まだ買われずに残っている。裏をめくると値下げしてある。

 この詩はわたしが中学生のときにこの古本屋で出会ったものなのだが、それを一度なくしてしまったかなんかで、もう一冊ネットで注文したのだ。ネットで買ったもののほうが状態が良かったので、多少思うところもあったが、ここでもう一度、売ったのだ。あの時と店員は違ったので気がつかなかったようだが、毎回この詩を手に取るときどうしても視線を感じてしまうのはわたしの自意識のせいであろうか。

それはそうと、この詩の中でわたしの最も好きな詩がある。あった、107ページ。これだ。

 ランボー全詩集 宇佐美斉訳 107ページ 前期韻文司詩より パリの軍歌

…ここで引用するつもりはない。

ただ、詩はいいものだ。

満足げに顔を上げる。

 棚に詩集を戻す。この詩集にはずっとここにあってほしいと願う。そんな念が込められているおかげで、この本はずっと買われないのかもしれない。右隣にはポアンカレの著書『科学と仮設』。左隣には『ニールス・ボーア論文集2 量子力学の誕生』がある。

どうやらランボーは科学者か数学者らしい。

 ここには奇妙な古本屋が多いのだが、この古本屋には名前がない。なぜなら、看板が壊れたままなのだ。だが確実に駅から適当な角を適当な回数曲がると行き着くので誰も文句を言わない。経営上はどうなのだろうかとか思うけど、ないものはないのだ。直す必要がない。さらに、この古本屋の伝統は長く、スズメの丘がまだ作りたてだった頃、ママが中学生のときにはもうすでにこの場所にあったという。そのときは、「景文堂」という名前があったらしい。そのときは理工系書籍ばかりだったという。いまも景文堂かどうかは気になるところだ。

 だけど、謎は謎のままにするつもりだ。いつかわたしの子供がここへ来て、ランボーが科学者であることを悟り、この古本屋の正体について疑問を持ち、わたしに問いかけてくることを想像してみる…

子供か〜

精子バンクを利用すれば、レズビアンでも子供を持つことが原理的には可能だ。しかし、制度的にはそれが許されている国は限られている。
パパの顔が浮かぶ。しばらく、ずっと会ってない顔だ。

入雅…

入雅はそういう意味でも革命的な国だ。


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