見出し画像

(まとめ)シューホフ 1-5「モスクワの給水の歴史」

給水計画

1. モスクワ市の給水計画の歴史

 (モスクワの19世紀半ばまでの給水の歴史は註1に記載した)

 1870年代以降は、慢性的な水不足は続きながらも、人口増加は止まなかったので、モスクワ市はムイシチ(註2)の水源地の買収などの措置を通して給水事業は続けられました。1871年にフドゥンスキー、1882年にペオブラジェンスキー、1883年にアンドレーフスキーは合計で1日あたり2,952,000リットルの給水ラインを既に建設してはいたものの、十分ではありませんでした。その最中、ニジニ・ノヴゴロド全ロシア博覧会の10年前の1886年大会(モスクワで催された)では、バリ社が参加し、モスクワ水供給システムの開発が発表されました。シューホフは、すでにタンクやパイプラインの建設、バクーでの送油実験および開発でポンプに関する最新のノウハウをもっていました。
 ここモスクワにおいても工業化が加速した結果、水の需要が急激に増加したことで、市や国から多くの給水施設の建設命令が下されました。タンボフの工業都市では、アレクサンドル・バリのスタッフたちとシューホフは大規模な地質学的研究に基づき、3年間で新しいモスクワ水供給システムを計画しました。このプロジェクトはすべての入札の中でも最も安かったので、バリはモスクワ市議会からの契約を獲得ものの、当時の財務省は、これらシューホフ計画の一部を別の会社に契約を推し進めてしまいました。
 しかし、バリ社とバリの最初のエンジニアのシューホフのグループは、異なるプロジェクトによってその存在感を示めそうとしました。バリは再び鋭い感覚でもって新しいニッチ市場を発見するべく研究を続け、シューホフはすぐに適切なアイデアや製品を提供しました。彼らの珍しい作業スタイルはコーベルマンによるシューホフの伝記によっても説明されています。

「シューホフの活動の共通の特徴は、すべての問題を解決するための「合成」法で、この方法は、理論と実践、設計計算の合成によって表現デザインへと至りました。収益性の高い、しかし、普遍的な方法を開発したのです。」

 1888年、モスクワ市議会は、昨年(1887年)から給水設備の建設のための調査を行ってきたシューホフとE.K.クノッルとK.E.レンプク(全員A.V.バリのエンジニア)に委託しました。また同年、市議会はエンジニアであるN.P.ジミン、A.P.ザバエフにモスクワ市内中心部の下水道敷設計画を委託しました。上記の給水計画により、ムイシチからヤウザ川へと流した12,776,000リットルと既存の水道から5,535,000リットルなど合計で1日当たり18,500,000リットルの水の供給の拡張を実現しました。ムイシチ水路の拡張計画はアメリカのニューヨーク・ブルックリンの地下水からの取水および供給理論に基づいて行われました。このシステムの利点は単純な高低差を利用しており、ケーソン(防水堤)を必要とせず、局所的な浸透水の流入に対しても、ポンプでの取水を必要としなかったからです。
 このシステムの唯一の困難は、プラントの規模をモスクワの様々な条件に適応することでした。これには実際の実験に基づいて、圧力、流れの向き、地下水の量について理論的に計算を行う必要がありました。そして水供給網の計算、モスクワとその周辺地域へと接続する水道管、取水拠点のシステムなどの包括的な理論を作成する必要がありました。
 そして必要な理論計算が大方、終了したのち、初期の水平型蒸気エンジンで50本の4インチの穴を深さ約32メートルで648メートル、ヤウザ川と平行な方向に伸ばし、また24インチの給水菅を使って、396万リットルのアレクセヴォの中間貯留施設に供給したのち一日当たり合計1,850万リットルという大量の水を供給しました。このタンクから追加のポンプと24インチの水道管を使って、クレストフスキーの給水塔へと運ばれた。この給水塔の各容量は3,690,000リットルを有していました。シューホフは2つのクレストフスキーの給水塔(1892年〜1939年(現在はどちらも保存されていない))を担当していました。このクレストフスキーの給水塔はシューホフがそれまで開発してきたどの給水塔よりもはるかに巨大でした。リガ駅近くのクレストフスキーの給水タワーは市長の強力な指導力とさまざまなエンジニアの関わりの上で、1892年に完成しました。高さは40メートルで塔の直径は25メートルで、塔の基礎は地下4メートルにまで達していました。底の部分は暑さ60センチメートルのコンクリートで固められ、それ以外はポルラント・セメント・レンガでできていました。このふたつの塔はアーチ橋で結ばれていました。水は上層階に貯められ、その総量は1845000リットルでした。それらはモスクワの海抜よりも上の海抜81メートルに位置していました。クレストフスキーの給水塔は市内の給水ネットワークに直接接続されていました。ムイシチの給水菅はサドーボエ・コルソからモスクワの川岸へとヤウザ川とともにモスクワの中心域へと接続していました。さらに1890年代にはモスクワの人々だけではなく、急速に発展する工業地域への十分な給水も必要としていた。
 ムイシチ給水菅の延長のために1889年に2,250,000ルーブルが投入された。水路計画はA.V.バリの事務所によってなされ、エンジニアN.P.ジミン、K.G.ドゥンカー、A.P.ザバエフ、によって建設された。システムはポンプ場と電気照明を備えた当時としては最新式のものであった。アレクセーヴォの貯水タンクには電気照明が追加され、ムイシチには労働者用住宅が当局によって建設された。1903年のモスクワ給水パイプラインの開業まで、ムイシチからの水の需要は毎日4,920,000リットルにまで増加していた(註4)。

2.ラティスの給水塔

 クレストフスキーの給水塔は19世紀の伝統的な工法を維持しただけで、かつあまりにも巨大で非経済的であり、シューホフの満足できるものでは決してなかった。これはシューホフに翌年のバリのボイラー工場での双曲面給水塔の建設を促した。またバリ会社とシューホフはモスクワだけでなく、タンボフ、キエフ、ハリコフ、ボロネジでも給水パイプラインを設計・建設している。彼らの仕事は都市の建築設計に限らず、都市開発の構造に決定的な影響を与えた。
 他の塔構造と比較して、シューホフのラティス・タワーはより有利で費用対効果に優れていた。シューホフによって何百もの給水塔が設計され、建設された。その大部分は全体的な建設と個々の部品(タンク、階段)の形式化に部分的につながった。これらの塔は驚くほど多様な種類がある。シューホフは双曲面の特性を使用して、ロッドの傾きまたは直径を変えることによって様々な形態を自在に生成することができ、形状変形の広範囲の特性を有する。重い容器を必要な高さに軽い塔の上に置くという困難な作業は、安全な形で解決された。内部に導入された階段の形は、塔形よりもさらに多様であった。すべての側面から見える塔の透明なラティスでは、その形が美的な印象を作り出した。したがって、それらは慎重に建設に取り入れられた。様々な螺旋階段の中には、優雅で例外的に大胆なぶら下がり構造もある。
 1880年以来、シューホフはさまざまな形式の給水塔の計画に取り組んできた。しかし技術的および経済的理由から、なかなか満足のいくものをつくることができないでいた。給水タンクはより大きな容量を必要としていたし、従来の「アメリカン・スタイル」による構造にも限界がきていた。さらにロシアのせいぜい1、2階建ての街並みには、都市を彩るための建築状のアクセントが求められていなかったわけでもなかった。

さらにコーベルマンによる回想によれば、「(シューホフは)解析幾何学の講義で、双曲面は自分の心のために良いと練習であった。」と述べているほか、「彼のオフィスには柳の木からできた双曲面構造のゴミ箱を使用し、設計原理の実証的なモデルとなっていた」とも述べている。「ラティス・タワー」のための特許出願は1895年11月3日になされた。このときには「ラティス・タワー」だけでなく、「レンガと木と鉄で作られた倉庫の建設」とも書いてあった。しかし、その3ヶ月後の1896年1月11日の公式の特許出願では塔の部分だけが記載されることになった。というのも、シューホフの鉄製ネットの構造の考え方はすでに石油貯蔵タンクを建てたときに現れていた。「ラティス・タワー」の特許を詳しく見ると、2つの直線上のL字鋼とパイプを使用することが記載されており、それによって得られる格子表面は十分な強度のシステムを形成する。交差する点ではロッドを一緒にリベットしていた(註3)。
 シューホフは、1895年、現在は塔も図面も残されていないが、アレクサンドル・バリの工場の敷地内に双曲面構造で容量1,500リットルの小さな給水塔を製作していた。それはラティス・タワーを立てるための実験的な建物だった。正式には、ニジニ・ノヴゴロド全ロシア博覧会の展示のための給水塔は双曲面ラティス・タワーのシリーズのもっとも最初の建設として記録されている。タワーの表面は80本のロッドがL字鋼でできており、それらは10本の横断するリングによって3軸で互いに固定されていた。タワーのシルエットである滑らかな曲線は直線のロッドによって生み出され、特別な曲げ作業を一切、使用していなかった。その後のロシアにおけるシューホフ・タワーの急速な普及の主な理由は、他の塔の形式と比較して、安価でかつ安定性が高いことにあった。実際にはシューホフ・タワーは他の給水システムの半分の値段であった。とくに1900年ごろのロシア工業化の間には、多数の工業団地、都市、鉄道のために数多くのシューホフの給水塔が建設された。1910年にはタンクが45の給水塔が建てられ、計37万〜74万リットルにも及んだ(註4)。
 これらの構造物の耐荷重能力は年々増加した。(タンクの容量は最終的に1,230,000リットルに達した。)全体としてはタンクの容量は1917年までの20年間でおよそ10倍に増加した。様々な使用条件に応じて、高さは9.1メートル〜39.5メートルがあり、容量もそれに応じて変化した。1901年、シューホフはメッシュの長さを計算して、異なるタワーにおける断面を決定していった。彼は、塔に必要なロッドのためのL字鋼の数やタンクの容量とタワーの適切な高さを、関数を用いて標準化した。こうしてシューホフは大量に受注される給水塔による混乱の収拾に努めた。こうして計算によってタワーの外見は半自動的に生成されたものの、シューホフはタワー構造の完璧な比率に常に気を配っていた。それぞれの給水塔の詳細については画像集に記載した。

1917年までに給水塔の総容量は最大2,000立方メートルまで引き上げられた。シューホフの給水塔の建設が第一世界大戦中にほぼ停止したのちも、彼の給水塔は革命権力によって再び、取り上げられた。1928年には早くも1913年までに消費された材料の量を上回った。そして1924年から1929年までに40以上の給水塔が新たに建設された。
 1935年からはシューホフ・システムを使用した木製の双曲面冷却塔の使用がオルスクで始まり(高さ36メートル、冷却面積2,400平方メートル)、1937年から1938年、モスクワとハリコフの加熱工場に導入された。




註1. モスクワ市の産業の増加は人口の増加を促した。1830年から1897年までにモスクワ市の人口は305,631人から1,035,000人まで成長し、1907年には1,346,000人もの人口を抱えていた。これにより、慢性的なモスクワ市は脅威的な水不足に見舞われていた。18世紀後半までモスクワに水道管はなかった。エカテリーナ2世は市民たちの要望を想定して、当時のモスクワの技術者たちに水供給計画をするよう依頼した。この計画では、ムイシチ(モスクワ)村から春に水を供給した。技術者バウアー(不詳-1783年)とジェラールはムイシチにレンガの壁で囲まれ、木で覆われた43基の給水タンクを市内の18箇所に設置した。またレンガ造りの水路がモスクワ北東部のサモテケル、アレクセエフスカエ、カランチェフスカエ・ウラチーシチェを通る(要確認)17.1キロメートル、流水幅0.92メートルで造られる。さらに険しい河川、渓流、峡谷を通って水を流すために石造りのロストキノ水道橋(ヤウザ川)が架けられる。ロストキノ水道橋は長さ445.6メートル、最後部の高さは30メートル、8.6メートルのスパンを持つ21のアーチを持っている。1805年には初の水道管が設置された。しかし、モスクワ市の予想した給水量の10分の1程度しか実際には供給されなかったため、相当、頭を痛めることとなった。モスクワの給水網は70年代後半までも都市管理のために多くのエンジニアが改善のために努力してきた。ゲノフとジミンと水の分布に詳しかった地質学者のタウトの貢献によって特に、ムイシチの水源に関する多くの科学的調査がなされた。これらの調査によって新たに判明した供給源から1日当たり、最大で123,000,000リットルの水を取水できることが示唆された。 [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)134〜135ページ


註2. 1920年代には構成主義の時代の代表的都市計画のひとつ「グリーンシティ」がまさにこのムイシチに計画されることとなる。P328-333[ロシア・アヴァンギャルド建築](日本語) 八束はじめ著. -- 増補版. -- LIXIL出版, 2015.

註3. 一般的には給水塔のロッドとリングの接続にはリベットが使われていたが、ときどきネジが使用されることもあった。さらに溶接技術の登場により、タンクとシューホフ・システムのラティス・タワーとの接続部が溶接されることもあったが、荷重の大きくかかる部分には使用されなかった。

註4. [Vladimir G. Šuchov, 1853-1939 : die Kunst der sparsamen Konstruktion] (ヴラディーミル・シューホフ、1853-1939、経済的構造の芸術)bearbeitet von Rainer Graefe, Murat Gappoev, Ottmar Pertschi ; mit Beiträgen von Klaus Bach ... [et al.]. -- Deutsche Verlags-Anstalt, 1990.(ドイツ語)134〜135ページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?