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神戸.2000.03.27

 神戸の街に住み始めたのは2000年3月27日。医師になるために横浜からやってきた。

 天気の良い春の日。安いアパートに単身パックのカーゴひとつで転がり込んだ。自分のこれからの人生を、震災からの復興途上のこの街に重ねながら。


 あの日。1995年1月17日。私は横浜にいた。

 卒業研究で大学付属の実験所にいたが、自分の能力不足や大学院生に虐められたこともあり、半ば腐ったように不登校気味になっていた。

 当然のことくサボろうと思っていた私を母が起こす。すでに朝8時近く。

「関西で大きな地震があったみたいよ」

 寝ぼけ眼で見たテレビに愕然とした。崩れた家。落ちた道路、駅。刻一刻と増える死傷者。一体これは何なんだ。神戸が特に酷いようだ。

 テレビをずっと見ていた。東京からやっている放送。

「東京でなくてよかったですね」

 と専門家。ふざけるな!今人が死んでるんだ!すぐにお詫びが入り、その専門家の姿を見ることはなくなった。

 私は何故かこれではいかんという気になり、研究所へ行った。先輩や職員は共同研究者を気遣う。報道は刻一刻と死傷者の数を足していった。


「ボランティアに行け」

 そう言ったのは指導教授と父親。

 被災地に学生ボランティアが次々と入っていることが日々報じられていた。

 オイオイ、それでは遅れている卒業研究が完成できないではないか。留年してしまう。あの嫌な大学院生ともう一年なんて嫌だぜ。

 私は教授や父親の助言を拒否した。卒業研究は言い訳に過ぎなかったのかもしれない。自分の心に勇気がなかったのだ。結局。

 不登校は取り消し、一心不乱に卒業研究に取り組んだ。指導のおかげもあったが、遅れを取り戻し、なんとか卒業に漕ぎ着けた。ただ、神戸や被災地に行かなかったことに対しての罪悪感のような気持ちは残った。


 震災後被災地に入ったのは1996年夏だったと思う。神戸市北区にあった大学セミナーハウスで「生化学若い研究者の会夏の学校」があったからだ。

 被災地に近づくにつれて増えるブルーシート。関東から一緒に来たメンバーは無言でそれを眺めていた。通ったところはそれでも被害が軽微なところ。震度7に襲われた地区には足を踏み入れなかった。復興が進んできても、後ろめたくて足を踏み入れられなかったのだ。ナイーブ?な関東人として関西そのものが怖かった頃でもある。


 1999年秋。私は迷っていた。

 前年、色々あって所属していた研究室を追い出され、次の行き先を探していた。アルバイトの塾講師の採用試験にさえ受からず、どうしたものかと思っていたときに、研究者向けの専門雑誌に掲載された小さな広告に目が止まった。

 神戸大学医学部で、研究歴を持った人(修士卒以上)を受け入れる基礎研究者養成のための学士編入学制度が始まる…。

 これだ!と思った。自分の研究歴が生きるし研究者としてやり直せる。こうして医学部の学士編入学試験を、神戸も含め手当たり次第受けることにした。それこそ死を覚悟するくらいの気迫の勉強をした。後がないから…。

 こうして受けた学士編入学試験。必死の勉強の甲斐あり、神戸、北関東、山陰の大学の3つに受かった。本当は最終試験で落ちた阪大が第一志望だったが、3つのどこにいくべきか迷ったのだ。

 山陰は遠すぎるから早々に消えた。

 残るは北関東と神戸。北関東は関東だし、親が暮らしたこともある。家族は当然こちら推し。関東人の持つ関西への反発もある。

 私自身最後の最後まで決められなかった。北関東の大学の入学手続きの会場まで行ったくらいだ。迷いに迷った挙句、手続きはしなかった。その瞬間、神戸に行くことが決まった。


 何故神戸に決めたのか。もちろん、研究レベルが高いことは知っていた。未知の関西暮らしができるか、相当悩んだ。

 決め手は結局震災だ。

 ボランティアに行かなかった罪悪感もあるが、復興途上の街に自らの「復興」を重ね、街の発展と自分の再生に頑張ろうと思ったのだ。

 神戸にとっては余計なお世話、という話だろうが。


 あれから20年。25回目の震災の日。

 この街で医学を学び、この街で医師にしてもらった。納税もしてきた(ふるさと納税じゃないよ)。被災者のパートナーと出会い、別れた。愛憎相半ばという感じだが、愛が勝り、職場は関西各地を転々としているが、拠点はずっと神戸に置いてきた。

 よく横浜出身なのだから、関東帰ればいいのに、と言われるが、全くその気はない。老いた母には申し訳ないが、横浜時代の私は前世みたいなもの。もちろん横浜に愛着はあるが、この街神戸で私は再生し、次のステップに進めたから、この街を第2の故郷と思っている。小ぶりではあるが、横浜と様々な面で似ているこの街を。

 神戸に貢献しているというより、神戸に生活を支えてもらっている感じではあるが、これからも神戸、兵庫県の人々、街とともに生きていきたい。


 6434の御霊に心よりご冥福をお祈りする。

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