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何のために働くか

何のために働いているか分からなくなる時がある。それは、ザッピング中の砂嵐のように一瞬の時もあれば、機嫌を損ねたため命じられた罰走のようにいつ終わるかわからないほど長い時もある。

働いているとその時にいずれ出くわすことは頭では分かっているが、「何のために働いているのか」という問いは、結局「自分は存在する意味があるのか」「私とは何か」といった存在自体への問いに変わってゆく。
「何のために」・・・目先の利益ー例えばお金のために働いているとのだと考えてみたり、逆に抽象的なものー例えば世の中のために働いているのだと考えてみても、書いても書いても下書きのままの書を見ている時のような違和感が残る。
その違和感が増幅すると、「何のために」という外側への問いが、「私とは」という内側への問いに変わってゆく。

では、「私」をどう見つければよいか。
例えば、詩は、自分の内側(の曖昧な感情)を外側に詩(言葉)として表現しているわけではなく、詩にすることで内側を知るという意味で手段であり、内側を表現する詩を見つけると同時に目的も達せられるから、詩には手段と目的との区別がないのだ、という趣旨を言った人がいた。
この考えからすると、「私」を知るためには「詩」を見つける必要がある。そして、「詩」は「何のために」だと思う。
要するに、「何のために働いているのか」を見失って「私とは何か」という問いに落下したが、そこから抜け出すためには「何のために」を見つける必要がある状態、穴から抜け出そうと手を伸ばすたびに足場が崩れてゆくような状態にある時が、何のために働いているか分からない時だと思う。

目的でもあり、「私」を見つける手段でもある「何のために」が在ると、働くことに生きがいを感じられたり続けられたりするのだと思う。

先日、医学部を目指して浪人している生徒の親御さんと話をしている時に、

「この子がいなかったら仕事を続けてこられなかった」と仰った。

それは、子どもに感化されて自分も今まで頑張ってこられたいう意味であり、浪人するための、また医学部に入った後の子ども(の学費)のために働く、という大義を得られたから続けられたという意味でもある。

私はこの言葉を聞いた時に、
お母様は、子どものために働くという「何のために」と、子どものために存在し意味がある「私」とを確かに見出していると思った。
そして、母子ともにお互いに救われていると思った。
お母様は、自分の存在意義を得ており、子どもは、ーややもすれば浪人生というだけで親に引け目を感じているだろうが、ー自分が親に働く目的や存在意味を与えていることを知っただろうから。
もしかすると子どもは、それでも自分のせいでお金もかかるし親の人生の時間を奪っていると考えるかもしれないが、親としては、働く目的や存在意義を与えてもらっていること、何よりもそれが「子どものために」であることは感慨無量の喜びだろう。親歴4年の私が言っても説得力に欠けるかもしれないが。

確かに、子どもは、親の時間を奪い心をすり減らす存在だ。
しかし、親にとって子どもは、どこまでいっても代替不可能な「何のために」そのものであり続けるのだと思う。それが親子という関係なんだと、2人を見ていて身に沁みた。少なくとも私は、そんな親子になりたい。

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