性善説・性悪説とは

今回は、性善説と性悪説について、解説していきます。
宗教に関する調べものをしていると、偶に出てくる概念なため、まとめます。
また、結構誤解されがちな言葉かと思います。


1.性善説と性悪説の現代的な解釈

先ずは現代的な解釈での意味を確認しましょう。
これらを一言で言うならば


性善説→人間の本性は、本来的には善(良いもの)である。

性悪説→人間の本性は、本来的には悪(悪いもの)である。

といったところでしょうか。確かに合ってはいるのですが、このままでは満点の解答とは言えません。
ではどのような解釈が適切なのでしょうか。

2.性善説と性悪説の歴史

次に、歴史的経緯の解説をしていきます。
今回は守屋洋 先生の『【新約】旬子』を参考にします。

この二つの語は、古代中国(紀元前221~220年)まで遡ります。
この時代は国々の対立が続いた、いわば戦国時代でしたが、争っていたのは為政者だけではありませんでした。この時代は「諸子百家(しょしひゃっか。春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称)」という様々な思想流派が誕生した結果、思想家たちも、自己の理論の優位性を確保するため、激しい論争をしていた…とのことです。
この時代に最も有名なのは、儒教の始祖である孔子(こうし)ではないでしょうか。そして、その孔子の弟子だった2人の思想家_孟子(もうし)と荀子(じゅんし)が、それぞれ性善説と性悪説を提唱しました。

3.性善説と性悪説の本来の解釈

先ずは、守屋先生の本文の引用からスタート致します。

孔子は人間の本性は善だとも悪だとも語っていないが、基本的に人間を信頼する立場に立っている。孟子はそれを一歩踏み込んで、人間の本性は善であるとする「性善説」を打ち出してきた。だが、放っておくと、さまざまな欲望に膨まされて、善なる本性を発現させることはできない。そこで求められるのが絶えざる修養である。これによって善なる本性を育てていくのが、人間に課せられた務めなのだという。(中略)孟子との違いの最たるものは、性悪説を打ち出してきたことである。人間の本性が悪だとすれば、これをそのまま放置しておいたのでは、社会そのものが成り立たなくなる。そこで荷子は悪なる本性を押さえ込む規範が必要

『【新約】旬子』 p4~5


つまり、本来の意味としては、人間の本質はどうであれ、修養なり規範なりを学ぶことが大事という、今でいう教育論の話をしています。
ですので、本来の意味的にはこう解釈するべきでしょう。

性善説→人間の本性は、本来的には善であるが、状況によっては堕落してしまうため、修練によって本来善を発揮させ続けるべき、という思想。

性悪説→人間の本性は、本来的には悪であり、このままでは社会秩序が乱れたままになってしまうため、修練によってその悪を押さえつけ続けるべき、という思想

4.感想

改めて調べてみましたが、現代に近づけば近づくほどに、性悪説の方が優勢な感覚があります。
私個人としては、この手の思想・哲学にハマったきっかけがトマス・ホッブスだからなのか、性悪説は割としっくりきます。
今後は
・荀子の性悪説の理論
・性悪説とホッブスの『リヴァイアサン』との親和性
・宗教と性悪説の親和性
について投稿する予定です。


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