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心の考察2(なぜ鍼治療が鬱病に効いたか?)

太陽神経叢

私は、脳科学だけでは心の病を治せないと考えております。

しかし、心は脳にあるというのは、多くの研究で裏付けるデータがあり、多くの人々が実感し、支持されております。

私も、鬱病になるまでは、心は脳にあると思っていました。

ただ、鬱病を克服して感じたのが、心は脳だけにあるのではないのではないか? ということでした。

むしろ、心を脳だけにとどめておいてしまったから、心の病気を患ってしまうのではないか? とさえ感じました。

そこで、心の在りかを探しに、私は、かつて読んだ本を読み直してみました。

そこで、いくつか面白いヒントがありました。

まず、セロン・Q・デュモン『メンタルヒーリングの実践』(1913・1918)書かれていた『太陽神経叢』といわれる神経節(腹腔神経節)に注目しました。

デュモンの考えは、こうです。

細胞は知的存在であり、細胞の一つ一つには心があり(細胞の心)、細胞間でテレパシックな会話が存在する。

身体の心とは、意識にあがらない潜在意識の心であり、人間の精神活動の約80%を占める(残り20%が、顕在意識の脳の心=思考する心)、交感神経組織であり、その中枢が『太陽神経叢』である(太陽脳=直感の心=本能の心)。

しかし、この太陽脳は、半覚醒状態である。太陽脳が覚醒すると、脳の心も覚醒する。

なので、まず太陽神経を起こすことが必要。具体的には、腹式呼吸と太陽脳に対する呼び掛けが必要となる。

毎日、瞑想しながら腹式呼吸をし、太陽脳に呼び掛け続けると、太陽脳が目覚める。

太陽脳が目覚めると、感情と健康のコントロールができるようになり、細胞の心に呼び掛けることで、病気が治る。

そして、脳の心も覚醒する。

以上が、デュモンの考えです。

『太陽神経叢』は、みぞおちの奥にある神経節(神経細胞が集まる場所)であり、多くの内蔵に神経細胞を伸ばしております。(第3チャクラにあたる場所!?)

https://nipponkaigi.net/wiki/Celiac_plexus より(大網枕)

医療従事者で、解剖実習を経験された方々なら、確かに、この腹腔神経節は、大網膜に張り巡らされ、脳のように神経細胞や血管が走っていることに驚いたことでしょう。

『お腹の中に脳がある』、そう思った方々も少なからずいたのではないでしょうか?

デュモンによると、腹式呼吸をしながら、太陽脳に呼び掛け続けると、太陽脳が目覚め、細胞の心に働きかけ、病気が治るようです。

すなわち、鬱病の克服には、腹式呼吸が不可欠ということになります。

確かに、私も鬱病の時は、意識的に腹式呼吸をしました。

しかし、この本は鬱病を克服後に読み直したので、私が鬱病のときには、デュモンのやり方では実践しておりませんでした。

私のやり方は、目を瞑って脈をとって、脈7拍で吸って、脈7拍で吐くという腹式呼吸でした。鬱病になってから出会った三上国師の弟子《じゅんにん》さんから教えて貰った方法です。

(ただ、恥ずかしながら、当時の私は呼吸の重要性について疎く、寝る前にやっていた程度でした。)

デュモンの考えをまとめると、細胞は知的存在であり、心がある(細胞の心)。精神活動は、脳の心(20%=顕在意識)と身体の心(太陽脳=80%=潜在意識)がある。身体の心の中枢は、太陽神経叢にある。しかし、太陽脳は、半ば休眠状態にあるので、腹式呼吸と呼び掛けにより目覚めさせる必要がある。太陽脳が目覚めると、感情や健康がコントロールできるようになり、脳の心も覚醒する、ということになります。

ちなみに、セロン・Q・デュモンは、『引き寄せの法則』で有名なウィリアム・W・アトキンソンのペンネームと言われております。

心とは

私の実感では、デュモンの考えがしっくりきます。そうすると、『私の心』とは、私の潜在意識と顕在意識になり、その在りかは、脳と太陽神経叢(太陽脳)ということになります。

ただ、前回から考察してきたように、心は、脳や、胸や、心臓や、太陽脳にあるという諸説を知ると、それなりに説得力があります。

そこで、これらの諸説の整合性をとることはできなのか? と考えるようになりました。

そのように考えてみると、そもそも心とは何か? という問題に直面していきます。

そして、かつて読んだ本を読み返すと、面白いヒントに気づきました。

それが『南北相法』です。今から200年くらい前に書かれたものです。

江戸時代の観相家の水野南北(1760-1834)は、『南北相法』にて、心についていろいろ述べています。

心を気海にこもらせる(心を下腹部に集中して落ち着かせる)

心の動きぐあいをみる

頭は、天に準じて円形である。もろもろの陽の集まる所であり、また種々の感情の動きまわる所であるが故に心を司る

胸は心の宿るところであり、また六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根の六知覚。認識作用をもたらす迷いの六意識)の集まるところである

心が丹田におさまる時は、すなわち人間社会がよく見えてくる時であり、天地自然と一体になることができる

腰から尻の間は丹田の下にあって心の宿る城廓である

心を貴く保つ時はそれに応じて言葉も自然に貴くなる

目は心の遊ぶ場所である


『南北相法』は、聖徳太子(593-622)を元祖とする口伝で伝えられてきた相法を、水野南北が纏めて、復興させたものだそうです。

ということは、上記の文から考えると、心は天から受け取るもので、心は貴く身体に保つべきものという考えが、日本人の間で、飛鳥時代から江戸時代まで受け継がれてきた考えといえるのではないでしょうか。

そして、水野南北は、心と精神を明確に分けて考えています。

精神 = 神 (個を超越した万有の霊的な心の働き)

心 = 意 (個の意志的な心の動き)


水野南北によると、心には、個の心(=心)と個を超越した心(=精神)があることになります。

そして、人は、神があるから、心を持つことができる…というのが、水野南北の考えのようです。

まとめると下記のようになります。

まず、心を身体に宿す(個の心)ためには、精神(個を超越した心=神)を宿すことが必要になります。

精神は神なので、天から降り注がれるものと考えられていたようです。

そこで、人間は、天から頭で神(精神)に感応して、頭に神を取り込むことで、精神は個の心になり意志的に働くことができます。

そして、頭から胸に宿すことで、心を冷静にコントロールできるようになり、目的や働きに応じて、意識を胸や、丹田や、仙骨のあたりに宿して、欲望をコントロールして、心を落ち着かせ、迷いを断っていたのではないでしょうか?

これがかつての日本人の心の在りかだったのではないでしょうか。

イメージとしては、

①天(宇宙)から頭(脳)で神気を受信し、神気をハート(胸)にためる。

②神気をハート(胸)に保つと、意識を脳で統率することが容易になる。

③活動の目的に応じて、意識を胸(又は太陽神経叢)や丹田や仙骨のあたりに宿す(能力を高めていく)。

といった感じでしょうか…。

そうすると、『私の心』は、基本的には脳に在るが、目的に応じて胸や丹田や仙骨あたりに意識的にとどめて置くことができる、ということになるかと思われます。

(つづく)


閻魔堂

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