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心の考察3(なぜ鍼治療が鬱病に効いたか?)

心はどこにあるのか?

前回までを振り返ると、約100年前の書物には、心は、次のように説かれておりました。

細胞は知的存在であり、心がある(細胞の心)。精神活動は、脳の心(20%=顕在意識)と身体の心(太陽脳=80%=潜在意識)によるが、ほとんどの人は20%にあたる脳の心しか使えていない。というのも、身体の心の中枢は、太陽神経叢にあるが、身体の心(太陽脳)は、半ば休眠状態にあるので、腹式呼吸と呼び掛けにより目覚めさせる必要がある。そして、身体の心(太陽脳)が目覚めると、感情や健康がコントロールできるようになり、脳の心も覚醒する、ということになります(セロン・Q・デュモン『メンタルヒーリングの実践』)。

この説は、私の実感に近いものでした。

もしかしたら、細胞の一つ一つに心があるのではないか?という問いは、私が実験において感じていたことでした。

実験の手法として、シングルセルコロニーアッセイという、細胞を1つずつ分けて培養していく方法があります。例えば、血球細胞にて、ある遺伝子をノックアウトした細胞の変異を調べたいときは、1つずつ培養して、細胞の様子を観察していきます。なかには、ある遺伝子をノックアウトすると、サイトカイン依存性の細胞(サイトカインがないと死んでしまう細胞)であっても、サイトカイン抜きで1つの細胞から(飽和しない程度ようにすると)無限に増えていくこともあります。そして、遺伝子的には全く同じ細胞であっても、増え方が異なったりして、それはまるで細胞が意志をもって繁栄していくようでした。

そうすると、デュモンの説、すなわち、細胞一つ一つには心があって、顕在的には脳がコントロールし、潜在的には太陽神経叢(=太陽脳)がコントロールするというのも説得力があるように思えます。

ただ、顕在意識や潜在意識という言葉を用いると、心の在りかがわからなくなってしまいます。

(特に、潜在意識というと、集合意識との区別が曖昧になり、集合意識がアカシックレコードにあるという立場に立てば、私の心がアカシックレコードにある…と考えることができるようになってしまいます。)

そこで、そもそも心とは一体何か? と考えるようになりました。

我が国において、約200年前、心は、水野南北によると、次のように説かれておりました。

精神 = 神 (個を超越した万有の霊的な心の働き)

心 = 意 (個の意志的な心の動き)

私なりに『南北相法』を解釈すると、次のようになります。

天の降り注ぐところには、精神=神(個を超越した万有の霊的な心の働き)に満ち溢れている。心は、すなわち、個の意識的な心の動きは、頭に降り注がれた神を胸に宿していると、意(=心)を統率するために頭(=脳)に宿り、それが目に溢れるようになる。そして、人間活動の目的や作用に応じて、意識的に胸や丹田や仙骨あたりにとどめて置く。それが心を貴く保つ秘訣であり、そうすることで、心を落ち着かせることができる。そうして、人は、天地一体となり、神人合一して、活動することができる。

という感じなのではないでしょうか(超訳ですが…)

とすると、日本心理学会のホームページで紹介されていた

(こころという感じは)からだと環境にまたがって発生・存在している (大谷悟 脳科学者)

という説も、日本古来からの発想を受け継いでいるように思えます。

つまり、世の中は、神の光に満ちた素粒子が溢れており、それが頭から降り注がれ、脳に入ると意志に乗るようになる。心は、物質的には頭に降り注がれた光の素粒子みたいなもので、本来は、意志によって身体のなかを自由に行き来できるものである、というように考えることができます。

このように考えると、『私の心』は、体内に取り込んだ光に満ちた粒子…と考えることができます。

『王の間』

そのように考えてみても、まだ疑問が残ります。例えば、心(体内に取り込んだ光に満ちた素粒子)が脳、胸(心臓)、丹田、目、太陽神経叢、仙骨あたりにある時に、どこに存在するのか?ということです。

あれこれ考えてみると、ふと、からだのなかには空間が多く存在することに気づきました。

そして閃きました。それはまるでピラミッドの『王の間』や、『女王の間』のようなものではないかと。

つまり、心は身体の空間に存在して、この空間を行き来しているのではないか?という

脳には脳室、目には硝子体、心臓には心嚢、胸には胸腔、太陽神経叢のまわりには腹腔、仙骨のあたりも腹腔があります。膜に覆われているということは、その間に空間がありますし、その隙間に、心が存在するのではないでしょうか。

もちろん、脳室のなかには脳脊髄液、硝子体のなかには硝子体液があります。

しかし、液体は、例えば水の分子はH2Oですが、水の容積は水の分子の総量よりもはるかに多く、分子は十数%しかないという説があります。

つまり、水の分子は、酸素原子と水素原子がずっと結合しているのではなく、酸素原子は、水素原子と結合しては離れ、絶えずパートナーを変えているそうなんです。

そう考えると、水は80%以上が空間であり、そこに何かが入り込んだりするのでないでしょうか?

例えば、『水からの伝言』(江藤勝)に載っている水の結晶は、酸素原子と水素原子との間に存在する何か(人から発せられた心ともいえる光の粒子??)によって形成されたのではないでしょうか?

http://hado.com/ihm/

つまり、液体であっても、心(光の粒子)は存在しえるのではないでしょうか。むしろ、液体のほうが、保存状態がよいのかもしれません。

そして、この光の粒子(心)を脳の中にだけ溜め込んでおくと、光が淀んでしまい、心の病が生じてしまうのではないでしょうか?

これが私の仮説です。

(つづく)


閻魔堂






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