私の祖母のあるいた道
以下の文章は、御調文学(広島県尾道市御調町)に載せられた私の祖母、日野ウタの「私のあるいた道」です。実は、私の母が祖母から話を聞いて書いたものだそうです。
「私のあるいた道」 日野ウタ
あの東京大震災の直後の大正十二年九月十二日に、京都府警に勤務する主人のもとに、世羅郡広定村小童(現甲奴郡甲奴町)より嫁いで参りました。
一年ぶりにお産するために里がえりをするのに、府中まで実父の迎えをうけて、人力車で小童にかえった時代です。
六か月滞在し、乳のみ子の長男をつれて小童から本村にくるのに、実父に送られて歩いて宇津戸まで行き、姉の家に一泊し二日がかりで、本村に来たものです。
京都では、和裁をしておりましたが、京都府丹後の震災に警備に行った主人が、大雪の降った寒い日のことで風邪を引き込んだのがもとで病気になり、健康が一応回復したものの厳しい勤務に続いて耐えられるかどうか不安を持っていた時、上司の奥さんが助産婦であり、その方のすすめをうけて、勉強し助産婦の資格を取りました。今、想い出しても子供を一人連れての勉強で苦しい日々でございました。
昭和六年二月四日に、病気のため京都府警を退職した主人と、上川辺村字本に帰ってまいりましたが昭和十四年正月に死去いたしました。
帰郷と同時に助産婦を開業いたしておりました。明治から大正・昭和にかけて、婦人は普通七、八人の子供を産み育ててきていますが、子供の死亡率も高うございました。この時代の婦人は、たいてい一人でお産にのぞみ、声を出しては女の恥だという習わしのもとに頑張ってお産をすませておりました。お産が始まると畳をあげてみのを敷き、その上に座布団を敷き座してお産をしていました。みのを敷くとお産が軽いと言う風習がありましたので、どこへ行ってもその風習が残っておりました。赤ちゃんの初湯は外へ流し、お日様が当たると罰が当るといって、お産をした丁度真下の床の下へ流されていました。それにまた、胎盤(後産)をやはり日に当てると罰が当ると言って床下に埋めていました。
床の下へ初湯を流したり、後産を埋めることは、衛生上よくないので、焼却するようにしてもらいました。
各家庭の家風も違い、妊婦としての過ごし方も人それぞれ様々でしたが、出産することを、一家あげて心配し心待ちにし、安産を喜んだものです。戦時中、終戦直後と物資不足の中で、お産の準備、妊婦の健康保持、子育ては並たいていのことではありません。
ないないづくしの中で、いろいろ生活の工夫もされましたが、母となるのだという若い妊婦が、苦しさをのり越えてきた時代。手と足と全身を使って考え、働き、子育てして来た時代、「母は強し」の感無量であり、現今、出産後、子育てに自信をなくし、都会の谷間でノイローゼで自殺をはかる弱い母親の姿など、当時はとても考えられぬことでした。どんなに苦労しても、我身をかえり見ず、子供を育て上げるという信念があったからです。
反面、信念だけではどうにもならぬこともありました。
昭和十六年、太平洋戦争がはじまって二年目のころです。勝つことを信じて、すべてが軍事優先で、お国のためにささげつくしておりました。カステラ一つを食べさせるにも、卵や砂糖を準備して行かぬと一切の入手もできず、リンゴ一つの配給があると聞けば、くらがりの道を自転車で、府中の父石まで行きました。栄養を取ることも、医師の治療を十分に受けることもなく死んだ長男のことを思うと、今も胸をえぐるほど可哀そうで忘れることが出来ません。
戦死されたり、原爆死されたり、戦災にあわれたり、いろいろな戦争犠牲の傷あとがあります。長男の死も、その時代の悲しい犠牲といっても過言ではありません。
戦局がきびしくなり、出征兵士の留守家庭での出産はまだしも、父となる人のすでに戦死されたあとに生まれてくる赤ちゃんを祝福することのつらかったことを思い、再び迎えたくない時代です。
今、私は内孫外孫に囲まれて過ぎし日を語れることを幸せに思っております。この孫たちの幸せがいつまでも約束されるよう願っております。
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