「#ひろの式カタカムナ」1週間の低迷期を経て、自分の使命が見えつつある話し
こんにちは。
福豆です。
今から約1週間ほど前になりますが、私は毎朝、出勤前の身支度をするとき、BGM的な感覚でYouTubeを流すのですが、その時、一番最初に出たYouTubeを流していました。
その日の朝は、超有名な方の講演会の音声が流れているものでした。
因果応報の話しでしたが、今世で苦労が絶えない人は前世で犯してきた罪を償っているから、今世がとても大変な生き方になっているというような話しでした。
例えば、
・今世でお金に苦労している人は前世でお金を粗末にしてきた人。
・今世で人に話しを聞いてもらえない人は前世で人の話しをきちんと聞いてこなかった人。
・今世でいじめられている人は前世で人をいじめてきた人
何気に聞いていたけど、その時、私の心のスイッチが入ってしまった。
前世で自分がやってきたことが、今世の私の人生になっているとしたら、私は今まで出会った人達(特に家族)に、相当な悪戯をはたらいたのではと感じてしまったのです。
自分の前世は傲慢で身勝手な相当な悪い奴だったんじゃないか。
でも、もちろん前世のことなんて記憶にもないのに、なぜ、今、私がその罪を償うような人生を歩まなければならないのか。
なぜ、なぜ、なぜ今なわけ?
そこから1週間、カタカムナ詠みも止め、#神の絵も止め、色々なことを考え、今の自分は前世の罪を償うためにだけに生きているのかと、目の前に起こることは全て償うための事象なのだと悲しくなってしまいました。
超えても超えても出てくる壁。
シンドいなぁ。
自分はカタカムナをやっているけど、努力がまだまだ足りないから神様の視界に入っていないんだな。
自己修練とは厳しい道なんだと思いました。
だけど、前世の魂の記憶など無いのに、償いのために今が苦しいだけの人生なのは仕方がないと納得してしまうことは、今を生きている私の存在価値が失われるように思えました。
今を生きる意味とは。
自分はどんな生き方をしたいのか。
私の使命とは。
人生を振り返ると、家族との関わりや仕事や地域活動の中で、常に私は「自分以外の誰かのために何かをする」ということが前提となっていたと思う。
その思いは、以前よりも強くなっている。
来月、防災士の資格をとるための研修を受ける予定です。
これも誰かの役に立ちたいと思い、自治体の防災士養成講座に手を挙げたのですが、正直なぜ手を挙げてしまったのか、何のために資格を取ろうと思ったのか自分でも不思議な行動でした。
多分、自分の身体が動けるうちは誰かのために何かをするという生き方を無意志に選んでいるのだろう。これによって前世の罪に対する償いをしているように思います。
約1週間。自分に対するどうにもならない怒りが爆発しそうな期間でした。
自分のことを凄く考えました。それでもまだ明確でなく、ぼんやりとした感じはありますが私の使命とは、
『前世で犯した罪を償い、目の前に現れる高い壁を越え、禊ぎをしながら私の来世の魂が今よりも幸せな人生を送れるように、#ひろの式カタカムナを通して魂を磨いていく』ことが今を生きる使命なのではないかと思いました。
この使命をもって生きるためには#ひろの式カタカムナへの取り組みをなくしては出来ないという考えに辿り着きました。
初めてカタカムナに出会った頃の私とは格段に違います。
本当に変われましたし、悩まず、そして迷わず進むための生き方が見えてきたように思います。
怒りと悲しみの感情を感じた1週間もちゃんと意味があり、とても有難い経験でした。
最後までお読みいただきありがとうございます。
ではまた次の投稿で。
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