病院の廊下

原体験 「僕の心の臓」

あの日の病室

僕だけしか居ないシンと静かな青白い病室。窓辺に立てかけられたパイプ椅子の鏡面から、背伸びをして胸にできた真新しい傷をのぞいていた。

僕は「心室中隔欠損(しんしつちゅうかくけっそん)」という病を抱えて産まれてきた。
読んで字のごとく「心臓の心室の壁に穴がある」先天性の病だった。静脈と動脈の血が混ざり合ってしまうので手術が必要だという。
空いている穴はすごく小さかったが手術を施すには3歳まで待たなければならなかった。

我が子が先天的な病をもっていることを知らされた両親の気持ちは、自身が人の親になった今となってはことさら、心中察するに余りある。

心臓の外科手術をするには鼓動を止めなければならない。それはどんな小さな心臓でも同じだ。
どのような技術を使っているかはわからないが3歳の僕の心臓は止められた。
血流が止まった身体は人工心臓を頼りに命をつなぐ。
赤々しくも静まり返った小さな心臓の縫合が始まった。

冒頭の病室は、術後にかすかに残っていた3歳の頃の記憶だ。
胸にできた大きな傷が不思議だったことを覚えている。
それからは大病もせず何不自由なく生活している。

ランニングと心臓

こんなことを思い出したのも趣味で続けているランニングで初めてハーフマラソンの距離22kmを走破したときだった。
心拍数を上げると心臓の病のことを思い出す。それで苦しんだことは一度もないのだけれど。

20kmのランニングは運動習慣がない人からすると途轍もない距離だろう。
3kmや5kmのランニングと聞くだけで卒倒する人もいるくらいだ。
僕も少しずつ距離を伸ばしてようやく走り切れるようになった。

30歳を過ぎてランニングを始めたのも子どもと遊ぶ体力がなくなることを恐れたから。おかげで子どもたちとは存分に遊べている。

ランニング途中にたまたま通りかかった神社で、しかも初めて手を合わせた日に、奥さんの身体の中に命を宿していることが判明した。
縁を感じざるを得ないよね。
それからランニングも、神社の参拝も欠かさないようにしている。

生かされている

今まで書いたような体験があるから、僕は「生かされているのだ」という気持ちが胸にある。

病が再発したら?
心臓の手術に失敗していたら?
3歳までに心臓の手術方法が確立されていなかったら?
もしも???

数々のかなしみ、犠牲の上に僕らは立っている。
圧倒されるほどの奇跡的な奇跡の中で生かされているのだろう。

僕の心の臓は、今日も静かに脈打っている。

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