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娘を妊娠させたクソ坊主、許せない(怒)!

人から悪口を言われても、全く苦にしないのが禅僧です。
そんな逸話が白隠禅師にもあります。

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白隠に娘を妊娠させられたと勘違いした娘の父親は、「こんなふしだらなクソ坊主には今後一切布施しないぞ。赤ん坊はお前が育てろ」と怒鳴って、赤ちゃんを置いて去ってしまいました。

近所の人々は白隠に冷ややかな目を向け、「娘を妊(はら)ませたとんでもないクソ坊主」と悪口を囁くようになりました。

白隠は周りの反応を特に気にすることなく、赤ちゃんをおんぶしながら日々の仏事を淡々とこなしました。

その後、娘の父親が勘違いしていたことに気がつき、白隠に自分の無礼を深く詫びに来ました。白隠は一切責めることなく、その娘の父親に優しく「この赤ん坊にお父さんはいるのかな」と言葉をかけました。

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臨済宗中興の祖であり、五百年に一度の逸材と称される白隠禅師でさえも、有る事無い事、悪口を言われます。ただ白隠が凡人と違うのは、悪口を言われた後の対応です。さすがは高僧白隠、全く動揺せずに今自分がやらなければならない目の前の事を淡々とこなします。

しかし、凡人の私たちは白隠のように簡単に受け流すことはできません。私も僧侶の端くれですが、白隠のような対応は到底できません。悪口を言われたら気分も害しますし、悪口を言った相手を憎むことだってあります。

かつて私はかつて職場で「有志一同」と名乗る者によって、私が破格の報酬を受け取り、最高権力者として越権乱用しているので懲戒解雇すべしという怪文章をばらまかれたことがあります。

その事実無根の内容に、私は強い怒りと苛立ちを覚えました。私は僧侶であることを忘れ、この「有志一同」という如何わしい者をどんな手段を使っても見つけ出し、必ず落とし前をつけてもらうと、いきり立ってしまいました。

感情的になっている私を見兼ねた先輩僧侶が、「そんなくだらない事で苛立って、お前は一体何のためにあれほどの厳しい修行したのか。こういう時のためにしたのではないか?」と私を諭しました。私は両頬に平手打ちをくらったかのような感覚に襲われ、我を取り戻しました。

『法句経』に「人は黙して座するをそしり多くを語るをそしりまた少しくかたるをそしる およそこの世にそしりを受けざるはなし」(黙っていても、多く語っても、少しだけ話す人も皆、非難される。しかしただ悪口だけを言われ人、褒められるだけの人は、過去、現在、未来に一人もいない)という一節があります。

悪口を言われない人などはこの世に一人もいません。白隠禅師のような立派な禅僧ですら悪口を言われれるのですから。私はこんな簡単なこともわからず、禅僧として偉そうにしていたのです。

もちろん、相手を許せない気持ちは、そう簡単には消えません。そんな時、私は「ふざけんな」という最初に抱く感情は、よしとするようにしています。しかしその一念の後の「許さない」という二念、そして「必ず仕返ししてやる」という三念は、なるべく思わないに気を付けています。

一念だけを認め、「そもそも悪口を言われるのは、私の存在感を認めてくれている証であり、悪口は言ってみれば褒め言葉の裏返し」と思うようにすると、少し気持ちが楽になりました。この思いが私にとっての「救い」となったのです。私は悪口を許せなくても、気にしない方法があることに気がつきました。 

それでも、悪口を言った相手を許せず、仕返しをしたい気落ちが抑えきれない時、私にはとっておきの仕返しの方法があります。

悪口を言われて怒りの気持ちを顕にしてストレスを貯めれば、悪口を言った相手の思う壺です。ですからどんなに悪口を言われても、「ふざんけんな」と一念した後、意識的に何もなかったように明るく振舞い、落ち込まずに活き活きと過ごしている自分を相手に見せつけるようにしています。悪口を言われても凹まない私を相手に見せつけることが、私の最大の仕返しです。

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