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声量と知能は反比例

先週の日曜日、カフェに行った。


そこは落ち着いていて、私は宇治抹茶ラテを頼み、読書をしていた。
しばらくそこで、落ち着いた有意義な時間を過ごしていた。

すると、同い年くらいの男5人組が入店し、大声で騒ぎ出した。
私はAirpodsProのノイキャンをして、滝の音をYoutubeで流したがそれでも全然うるさかったくらいの声量である。

彼らはサッカーゲームをし出し、その後、五人のうちの一人がトランプをし出した。なんの音かわからないがパチン!パチン!と聞こえた。

日曜日ということもあり客の出入りは激しいのだが、彼らの周りの席だけ一向に埋まらず、彼らからなるべく離れた席がぎゅうぎゅうに埋まっていく。まさにドーナツ化現象である。

そして、夕方になると、カフェに荷物をおいたまま、ラーメン屋に行く話をし、夕飯を食べに行ったのだろう。

私は、その神経が理解できなかった。
「日曜である程度客の数が多い中、荷物だけ置いて飯を食べに行き、他の人が利用できなかったら?」
「読書や勉強をしている人が多い中、そんな声量で騒いだら迷惑をかけてしまうだろうか?」
「喫煙所の扉を開けっぱなしにしたらタバコの匂いが嫌いな人に迷惑なんじゃないか?」
「そんなに激しく貧乏ゆすりして、じっとできないのだろうか?」
「入口の前で五人がだべっていたらカフェに出入りする人の邪魔になるのでは?」
「そんな豚みたいに鼻を啜ったら、うるさいのでは?かめばいいのに」

今は法律があるが、生まれる時代や身分が違ければ、切捨御免で切り殺していただろう。
私がもし当時の武士ならば、まずは彼らの鼻をすすれないようそぎ落とし、うるさく騒げないよう喉を斬り、ペン回しができないよう指を斬り、貧乏ゆすりができないよう足を斬り落とし、、、あとはトドメは刺さずに身動きできないようにしてゴミ収集エリアに放置しておくだろう。
あと、性器も切り落としておこう。貧乏ゆすりをする人に男性が多いのは性器を揺らし刺激を与えているのが快いためだと聞いたことがある。
これで、貧乏ゆすりもしたくなくなるし、遺伝子レベルでクソ野郎がこれ以上汚伝子を残さなくて済む。一石二鳥だ。

とにかく、たった5人の同年代の男共にせっかくのくつろぎの時間を邪魔されたことに強く憤りを感じたのである。

こういう知能が低い者の特徴としては大体共通点がある。

・室内でも帽子をかぶっている
・貧乏ゆすり
・声がでかい
・豚の如く鼻を啜る
・臭い
・喫煙者
・群れる
・パソコンのタイピングがうるさい
・肩で風を切るような歩き方
・ノック式ボールペンを必要ない時にカチカチ鳴らす
・ペン回し
・咳払い
・道端に痰を吐き捨てる
・ナンパをする

とまぁ、このくらいである。
私が塾講師のバイトをしていた頃、
ノック式ボールペンをカチカチずっと鳴らしている生徒を注意したことがある。
「それうるさいからやめて、つい癖でやっちゃうのはわかるけど、そういうのが気になる人が一定数いるんだ。入試本番、気になる人が君を報告して、試験監督からそれを注意された場合、君は入試に集中できると思うか?だから、周りの人の迷惑にならなくすることは自分のためにもなるので、その癖を今からでも直すように意識すること。」

と伝えた。彼はそれをやめた。
そして授業が終わった後、別の生徒から廊下で声をかけられ、こんなことを言われた。
「先生、さっきはありがとうございました。ずっと気になっていたのですが、他の先生は全く注意してくれなくて、僕だけがどこかおかしくて、気になってしまうのかと思っていたんです。だから先生が注意してくれて、安心しました。」
私は答えた。
「確かに他の先生や生徒から見たら小さいことかもしれない。けど、小さいことを気にすることができるっていうのは才能だと思いますよ。そういう小さいことが気になる人が世の中の変化にいち早く気づき、良くするために行動できるんだと思います。だから、気に病まないで自信持っていいですよ。」

はっきりは覚えていないが大体こんな内容を言ったと思う。

本当にどうしようもない人達。

弱者は弱者でも、自由の意味をはき違えて、大した努力もせず、無駄に生き、なんの能力も身につけていないのに、「今を楽しもう」みたいな感じで周りに迷惑をかけながら生きている本当にどうしようもない弱者は、いない方が世のためだとは思っているのだ。

とは言っても、今の世の中は人を殺すと法によって裁かれるので、別の方法はないかと考えた。

それは品性、民度の資格を作り、彼らとの住む世界を分離することである。

「当店は民度3以上のお客様しか入店できません。」とかのカフェがあれば完璧だ。民度証明書を見せて入店すれば、皆同じくらいの民度の人たちとの空間でくつろげる。

民度1
高級ホテル
高級和食屋など

民度2
カフェ(プロント)
ホテルのラウンジ

民度3
カフェ(タリーズ、ドトール、スタバ)
図書館

民度4
マクドナルド
カラオケ
ダーツバー
ファミレス

民度5
松屋
ネットカフェ
カプセルホテル
ラウンドワン
安い居酒屋

私のイメージだとこんな感じだろう。

騒ぎたいなら民度4以下の店に行けばいい。静かにくつろぎたいなら民度3以上のところに行けばいい。

また、

知能が低い者を側に置いておくことの危険性

についても述べておこう。

知能が低い者を側に置くと、彼らと私との差は大きくなっていくばかりである。これはとても危険なことであり、彼らとは決して分かり合えないのである。

私の経験則で述べると、以下が一連の流れである。

最初は友情で始まり、やがて私への憧れに変わり、それが自分にはできないと気づき出す。すると羨望の眼差しは妬みに変わり、私が自分を高めるために使っている時間を彼らは、私の足を引っ張り、自分のフィールドまで下げることに使う。

例えば、好きな女を取られたと言って勝手に妬んできた男がいた。
彼は五人組を作り、私に危害を加えてきた。彼は彼女と付き合っていたわけでもない、ただの片思いだ。彼は彼女に告白して振られ、その彼女が私にアプローチをしてきて、付き合った。
なぜ彼は私にその女性を奪われたんだと思ったのだろうか?
想像力が足りない。彼女にとって彼よりも私の方が魅力的に見えた。それだけである。
妬むべきは私ではなく、自身の能力の低さ、魅力の無さだということに気づかないから、自分を高める努力をせず、他人を貶める愚行に走ったのだろう。そして、その行為が彼自身の魅力をさらに下げているのことに彼は気づかない。何故なら彼は想像力がないから。

彼らは私に関する真っ赤な嘘の噂を流し、クラスで私を孤立させた。
私は殺されそうになったことはあっても人を殺したことは一切無い。
私は女性に襲われたことはあっても、女性を襲ったことは一切無い。

しかし、私のことを深く知らないものはそのような噂が流れた時点で万が一のことを考えて関わりを避けるのだ。真実なんてどうでもいい。ただ関わりたくないと考えるのだ。
火のないところに煙は立たぬというが、あれは嘘である。
何もないところにでも、誰かが火をつければ煙は立つ。


「僕は味方だよ」「君はそんなことをしないと信じてるよ」と皆の目がないところで私にそういう者もいたが、彼らも雑魚である。
それでいつまでも彼らに慰められながら、雑魚同士の傷を舐め合いながら生きても状況は一向に変わらない。助ける力や意志がないなら優しい言葉なんてかけるな。

状況を変えるには、強さがいる。雑魚と決別するには暴力か裁判が手っ取り早い。工数を考えれば暴力が一番早い。

そして私は、財力、筋力、地位、名誉、技術力、全ての力を手にいれる。
きっと将来現れるであろう守りたい人を守れる強さを求めて。

私が雑魚を嫌い、強さを求める理由はこのような経験が多かったからだ。

夏油に似ていると3回ほど違う人に言われたことがある。
呪術廻戦を見たが、彼に全く同感だった。
強いものや、強くなろうとするものが生きやすい世界、それは素晴らしい世界だと思う。

インターンやグループワークでも無能が仕切れば、有能が黙る。
弱いものに合わせなきゃいけない世の中に疑問を抱くことが多かった。

もしバスジャックにあったら

例えば、バスジャックにあったとする。
バスの中には乗客が12人、覆面の刃物を持った男1人

そんな状況になった場合、私はまず情報を集める。
彼らの目線、仕草から乗客に扮装している犯人はいるか?
今身近にあるもので武器に使えそうなものはあるか?
自分一人だけで逃げるか、彼らを行動不能にするか?

あらゆる情報を集めそこから最善となる判断を下す。

そしてバスが高速に入り、一人で脱出が困難、連絡手段も全て没収された場合、彼らを制圧する方向に考える。

通り過ぎた瞬間に上着で彼の顔を多い、腕を後ろで組ませ固定、そして、乗客の一人に足を固定するように指示を出す。
「そこのベレー帽の人、足押さえて!」
と言ってすぐに行動できるのはどのくらいの人間だろうか?

もし彼が怯えていて何も考えていなければ、私は犯人に体勢を立て直され殺されるリスクが大きく上がる。

このようにな場合、私は犯人に殺されたのだが、それは無能に殺されたも同然である。

カブトムシおじさん事件

時は遡り、小学生の頃「カブトムシおじさん事件」というものがあった。
私はそれに遭遇したことがある。
小学3年生のとある夏の日の下校中、虫網と虫籠を持った白いタンクトップの毛むくじゃらで腹の出たおじさんが虫籠を見せてきた。当時はおじさんが大きく見えたが、多分身長165cmくらいで今見たらそんな大きくはないと思う。

「みて、コーカサスオオカブトだよ、あの山で取れたんだ。よかったら一緒に来る?」
「ごめんなさい、俺たちこれから塾なので、、、」
私は一瞬で不審者だと分かって断ろうとしたが、一緒にいた友人たちはコーカサスオオカブトが本当にあの山にいるかもしれないと正気ではなくなっていて、おじさんについていくと言い張った。

虫籠の中のコーカサスオオカブトはおそらくフィギュアだと思った。
全く動いておらず、あまりにも左右対称のポーズをしており、テカリも嘘っぽい反射だったからだ。

カブトムシは偽物でおじさんが危ない人である可能性を友人たちに小声で伝えた。
しかし、それでも彼らは言うことを聞かなかった。危ないよりも、本当にコーカサスオオカブトを捕まえられるかもしれないと言う気持ちが圧勝していたのだ。今思えばまんまこれの大学生版がマルチ勧誘である。

「こいつだけ塾あるみたいなんで、俺らはついていきます」と言って私だけ置いて彼らはおじさんと行ってしまった。

もちろん私はその日に塾なんてなく、何より彼らが心配だったので、私はおじさんと彼らを気づかれないように尾行した。

絶対に気づかれないようにしていたので、慎重になり過ぎて山の途中で見失った。

すると、山の奥で大人の男が怒鳴るような声と、友人の声が聞こえてきた。
音のする方に向かうと、遠くでおじさんに友人が暴力を振るわれているように見えた。そして、友人の一人と目が合った。

私はその瞬間、自分ではどうしようもできないから、大人の助けが必要だと判断し、急いで山を駆け降りた。

一般道に出た時、歩いている大人の男に遭遇したので、事情を説明し、警察に通報と、その大人の人にもついてきてもらい、事態は解決した。

泣きじゃくる彼らに「大丈夫だったか」と聞いたところ、殴られた。
私は感謝と謝罪をされるだろうと思っていたので呆気に取られた。

「俺らを見捨てて、逃げたくせに!」と言われた。涙を流しながら、怒りをあらわにしたあの目は10年以上経った今でも忘れない。

「私が何をしたかも知らないくせに、よく言うよ。それなら、あの時、立ち向かって君たちと一緒に怖い目に遭えば良かったの?

そしたら君は今ここにいないで、もっと怖い目に遭ってると思うけど、、君はそれで満足なの?」

と、言いながら、私も彼らの反応が悪い意味で意外で泣いてしまった。

助けたはずなのにあの事件以降、彼らとは疎遠になった。
学校で会っても、挨拶も交わさなくなり、一緒に遊ぶことも無くなった。

義務教育も奴隷の英才教育のように感じていた。


しかし、私のその感覚は正しかったと思う。
真面目に義務教育を受けていたいわゆる「いい子ちゃん」ほど、就職し、鬱になり、一年未満で退職し、行くあてもなく実家で引きこもっている。か、それらを我慢したまま、働き続けている。

もし私が教育者なら、そんな義務教育は一切やらさず、毎日社会科見学でとにかく子供たちにいろいろな経験をさせる。芸術、工学、音楽、さまざまな生き方を見せることで、その中で子どもたち一人一人が自身が興味あるものを選び、その分野を勉強していく。そんな方針にするだろう。

人それぞれ、興味があるものが違うのに、国語算数理科社会+英語を押し付ける。
なんて傲慢な教育だろうか。
私にはそれが「自我を殺し奴隷のように生きていく」ための教育方針にしか思えなかった。

小学生のなりたい職業ランキング1位が公務員

ときいてこの世の中はもうみんな狂ってしまっているのかと絶望した。

「国が不況になったら一緒に死んでいきましょうね〜」そんな生き方に疑問を持たないまま沈みかけの船から出ようとしない人たちが多すぎる。

友達も、先生も、親も疑え、そして

自分の眼で見て、自分で考え、自分の力で生きろ

私にとっての当たり前が、世の中の当たり前ではなくなっていくことが悲しい。

例えば、中国拳法に興味があり、本場で学びたい、ネットでも本場の教材に触れたいという子供がいたら、必要なのは英語ではなく、中国語である。

数学も英語も私は3DCGに出会い、必要となってから学んだ。
なりたいものを見つけ、必要となってから学ぶ方が、なんとなく義務教育のカリキュラムで学ぶ能登は段違いで学習意欲が高く、早く習得できるのである。

以前、友人に「もし君がハリーだったら、どうやってヴォルデモートを倒す?」と聞かれた際に「具体的な作戦を立てる前にまずロンを殺すかな?」と即答し、距離を置かれたことがある。

強大な敵より、弱小な味方を置く方が危険なのである。

狂った世の中を私なりに解決したい。

しかし、私にはまだ力が足りない。

それ故、私は孤独を選んだ。

力をつけるために選んだ孤独は素晴らしいものだ。

この世は選択肢があるのが素晴らしい。

少し遡ると、どんなに武術に興味があっても農民は農民のままでいなければいけない時代があった。

それに比べて今の時代はなりたいと望めば、それになれる。

そこには制限のない、無限の選択肢がある。

もちろん、頑張りたくない人は頑張らないという選択肢もある。
しかし、そのようなものは頑張る選択をした者を否定する権利はない。
ちょっとやって結果が出なければ、俺には向いてない、才能が無いと言って、1ヶ月や2ヶ月のそこらで諦める。そういう道を選んでいるのだから、その努力に見合った人生を送ることにぐちぐちと不満をこぼしても何も変わらない。

彼らは人生を定期試験のようなものだと思っているのだろうか?
そのくせ、成功している人間を見るとあいつは天才だから、や才能があるからなどと言う。

私もそれを言われ虫唾が走ることがよくあった。

私の考えだと、スポーツ選手で恵まれた筋肉などで、遺伝で優位に立つことはあっても、天才や才能のある奴なんてこの世にいないのである。

例えば、CGのデザイナーとして就職するという目標があり、その目標が叶うために必要な努力量の数値を100としよう。

1日8時間勉強し、得られる数値は0.1~0.3くらいである。ある程度合理的に学ぶ人でざっとこのくらいだから、普通の人なら0.1以下もあり得るだろう。

夢や目標を叶えてきた人間はこの0.1が想像できる。だから続ける。

氷山の一角だけではなく、その下に隠れた物の大きさが想像できる。
だから、天才だなんて言葉で片付けないのだ。

皆がこの世界で好きなことに出会い、0.1を積み上げる選択をできる世の中だと言うのに、ちょっとやって10や20そこらで自分には向いていないと諦めて、やりたく無いことを週5で8時間やっている人がいて、その数が思っていたより多いことが残念でならない。

そして、0.1を積み続けた人間と0のまま今を楽しみ続けた人間との差を感じ始めた。学生の頃、私がCGのデザイナーを志した時に馬鹿にしてきた人間と今の私の差は明らかである。
以前偶然彼らに会った時、話しかけられ、ご飯に誘われたが断った。
今何をしているかを聞かれ、めんどくさいので夢を諦めて不動産の営業をしていることにした。
以前付き合っていた彼女の仕事がそうだったので、浅い知識でぼちぼちやっていると伝えた。
すると、雑魚共は自分の話をしだした。雑魚共がどうしているかは正直興味がないが、不幸自慢やミジンコ並みの出世自慢、雑魚が必死に見栄を張っている姿を見ると、ニヤニヤが顔にでてしまいそうだったので
「今急いでるから、またね!」
と言って早めに去った。
意訳すると「もう2度と会わん。早く帰らせろ」という意味だ。

では、成功する者はなぜ続けられるのか?


これにはさまざまなパターンがあると思う。
一つはポジティブな理由で継続できる者。
例えば、3DCGがすごく楽しい!という純粋な気持ちだけで続けられている人。
私はこのような人とはあったことが無い。

2つはネガティブな理由で継続できる者。
私はこのパターンだ。絶対に戻りたくない過去、つまり死の境を彷徨った期間や回数が多いものほど、その恐怖心が強くなり、その恐怖心によって推し進められている状態だ。

私自身も小学生の頃は一日中ポケモンのゲームをしていたり、みんなと騒いで1日が終わることを幸せに感じていた。しかし、中学、高校、大学で「弱い」という状態は誰かに搾取され続けるんだということを知った。

暴力やレイプ、誹謗中傷、無視など、私がこれまで受けてきたさまざまな不利益なことは私が弱いから招いた出来事なのだと知った。

それ以降、弱いという状態が怖いに変わり、「常に強くなければ人は危害を加えてくる」と念頭に置くようになった。

それ以降、ゲームをして1日を潰すなどは戻りたく無い過去に一歩戻ることになるので恐ろしく、私にはできなくなった。

よく子供を持つ先生や上司は「うちの子はどうしたらEnigmaくんみたいな人に育つか?」と聞かれることがあるが、毎回推奨していない。

なぜなら、その人はゲームばかりしてても怖くならない平和な人生を送れているからだ。私は心からその人たちを羨ましく思う時がある。
そのほうが幸せだと思うから。

NARUTOでも、うちはイタチのセリフで、
弱いのは憎しみが足りないからだ」という言葉がある。

理解できない人には私はよくこの例え話をする。

例えば、
1日10時間勉強しようと計画を立てて、明日から毎日ご褒美もなしでそれができると思う?

、、、多分できないよ、数日できても続かないと思う、、、

じゃあ、君が勉強机で勉強している背後から、知らない黒ずくめの男が入ってきて、弾の入った銃を突きつけられ、「10時間勉強しろ」って言われたら?

、、、できる、、、というかやらなきゃ死ぬよね!?

その状態なんだ。苦しい経験や辛い経験、消したい過去を積めば積むほど、この銃のイメージが濃くなる。
私ははっきり見える。サボったら撃たれるのもわかる。
幸いなのは勉強内容を自分で選べたことだ。どうせ毎日ずっつやらなきゃいけないなら楽しいと思える分野がいい。

だからいつか、強くなって、強く、強く、もっっっっっと強くなって、撃たれても死なない状態になったら、この黒ずくめの男の銃を握り潰し、ぶち殺してやろうと思っているんだ。

そうすれば、この私にこびりついた恐怖心や、生きづらさもマシになるはずだ。


百星の明は一月の光に如かず

という諺がある。

この諺は「たくさんの星の明るさを集めても、ひとつの月の光に及ばない。つまらぬ者がいくらいても1人の賢人がいることの価値に及ばない」という意味だ。

わかりやすく言えば「雑魚がいくら集まっても賢い俺には敵わないよ」ということである。

まだ私は月の光になれるほど強くはない。

しかし、いつかは月の光となって、このクソみたいな風潮に終止符を打ちたい。そして、大きな強い光として、未来に不安を抱える人や、生きづらさを抱える達を照らしたい。

平和な人たちはそのまま太陽のように輝かしい大谷翔平とかに憧れていただければいい。

私は彼らが照らせない、くすぶった者たちの光になりたいのだ。

今は駆け上がる時期、私が十分に強くなったら教育に全力を注ごうと思う。






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