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雨・レクイエム・最終章
咲良が、不忍池で、凶器と思われる和かみそりを発見したころ、埜瀬警部は、保安課の課長から、
「先日、ある女性を取り調べたんだが、例の不忍池の事件と関連があるかもしれない」
と聞いた。
その女性とは、埜瀬が注目している、あの伯爵夫人だった。保安課で、ダンスホール事件を捜査中に、この夫人が違法賭博にも関与しているという情報を得て、召喚したのだが、そのとき、彼女が、
「わたしは、女たちに、ダンサーを
雨・レクイエム・其の肆
一か月ほどまえ。
東京に名残雪が舞った日、ピアノリサイタルの準備に忙殺されていた和乃のもとへ、一通の手紙が、届いた。差出人は「雪村千春」。知らない名前である。手紙を読んで、和乃は、愕然とした。いまのいままで、和乃は、自分に妹のいることを知らなかった。
妹は、うまれてまもなく、流行病で亡くなり、母は、そのつらさに耐えられず、実家に戻って、その後病死したと、父・敬一郎から聞かされていたからである
雨・レクイエム・其の参
上野・不忍池は、すでに午後の陽が傾きはじめている。埜瀬警部は、検視医とともに、弁天島の橋のたもとで、池から引き上げられた遺体の検視中だった。
龍之介たちは、そこから少し離れた場所で、見物人たちにまじって、その様子を見ていた。
検視をおえた埜瀬が、龍之介と小文たちに気づいて、近くへやってきた。
「龍さん、どうしてここへ?」
埜瀬に聞かれて、
「千春さんが亡くなった不忍池で、今度は、ダンサーの
雨・レクイエム・其の弐
埜瀬治之警部が、警視庁にもどると、刑事部捜査第一課の神保(じんぼ)課長から呼ばれた。
「内務省警保局からの強い要請で、いよいよ、市内のダンスホールへの取締りを、強化することになった」
と課長が言った。
「その証拠集めに、人手がいる。君も、保安課へ、応援に行ってくれ。不良少年係も人手が足りないらしい」
「課長」
埜瀬が言った。
「しかし、市内のダンスホールには、上流階級のご婦人方が、多数出入
雨・レクイエム・其の壱
墨堤(ぼくてい)の桜が、ちらほら咲きはじめ、あたたかな日差しが降りそそいでいる、三月の終わりころ。花見客は、まだ少ないが、浅草寺さんへ参詣したあと、墨田川の堤を散歩する人々の姿がふえた。
その日、龍之介は、自宅のある田端から省線の電車に乗って、上野駅で降りた。神田神保町の古書店から、探していた古本が見つかったという連絡があり、市内へでかけてきたのである。
この時代の男にしては、龍之介は長身で
仇討(あだうち)・Ⅵ
津田源一郎は、他の同僚たちとともに、不入屋から八回、金を借り、借用証文を渡していた。その金で、馳走を食べ、芸者遊びにうつつをぬかし、金がなくなると、不入屋に無心した。
多くの軍人が、そうやって不入屋にたかったのである。そのかわりに、不入屋は、陸軍への軍需品納入で、独占権を得た。
しかし、不入屋の公金不正流用が司法省の探知するところとなり、捜査の目が自分たちにむけられると、借金まみれの軍人たち
仇討(あだうち)・Ⅴ
事件の容疑者は、陸軍省の軍人や事務方だけでも五十人近い。そのなかから、殺人犯を見つけねばならない。
一睡もせずに朝を迎えた彦四郎が、おしまの敷いてくれた寝床に入ろうとしたとき、小文たちがやってきた。
「眠いのだ。出直してもらってくれ」
おしまに言いかけたところへ、廊下から足音が聴こえてきた。
部屋の前で、数人の足音がとまり、廊下から、小文の声が、聞こえてきた。
「彦四郎さま、お見せしたい
仇討(あだうち)・Ⅳ
彦四郎が、鍛冶橋の司法省警保寮から、浅草にある屋敷へもどると、家人の桐戸半蔵が、
「神保さまがお見えでございます」
と告げた。
神保信之は、司法省警保寮の一等巡査(警部補相当)である。密偵掛に所属するため、彦四郎の直属の上司ではない。
彦四郎と神保は、麹町(こうじまち)にあった斉藤弥九郎道場で、ともに剣術を学んだ間柄である。後輩ながら、剣術の腕は、彦四郎が上であった。彦四郎は、三人の兄より
仇討(あだうち)・Ⅲ
同じころ、政府の太政官正院に所属する監部という密偵機関でも、極秘に「おとき殺害事件」の調査が始まっていた。監部は、国内の外国人居留地における情報収集活動や国内の反政府組織への潜入、政府高官の暗殺といった政治事件の調査が主な仕事であり、こうした民間人の殺人事件に介入することはない。
この事件の調査を命じたのは、長官の大隈重信である。武蔵屋の囲われ者のおときが殺害された事件に対して、司法省警保寮の
仇討(あだうち)・Ⅱ
二日後。午前十時をすぎている。
本所深川にある武蔵屋藤兵衛の別宅まえで、二台の人力車がとまった。
司法省警保寮・探索掛の二等巡査、月殿彦四郎が、小文と咲良を案内して、やってきたのである。二人が、どうしても事件現場を見たいというので、上司には内緒で連れてきた。
彦四郎は、巡査の制服である。銀線を巻いた桶型つば付の制帽、六つボタンの紺色の上着、サーベルを腰に下げている。
姉妹は、いつもの、丈
仇討(あだうち)・Ⅰ
仇討(あだうち)
ある晴れた、九月初旬の早朝。東京市・本所深川大和町。平久(へいきゅう)川ぞいにある、閑静な町家の格子戸を、いつものように、日本橋浜町で輸入服地をあつかう、武蔵屋の女中おせん(十七歳)がくぐったのは、午前八時前である。
つぶし島田の髷(まげ)に結い、縞の木綿の単衣(ひとえ)を着たおせんは、玄関右脇の錠のかかっていない木戸をぬけて、石畳の通路を井戸のほうへ歩き、その手前にある勝