見出し画像

僕らは、他人の人生の「ささいな一瞬」に出会っている


最近受けた相談のうちの何件かは、ものすごく素敵な若者が、社会的に「高くない評価」を受けて悩んでるものだった。

皆さんのこれまで人生で一番「やばい自分」だった瞬間はいつだろうか。
人によって、学生時代の人もいるし、社会人になってからの人もいるだろうが、
一つわかることは「ずっと完璧」な人はいない、ということではないだろうか。

僕自身に関して言えば「今」の自分はとにかく周りに恵まれている。

そのおかげで僕自身も、比較的「いい自分」になれていると思う。
あるいは、周りの人たちに「いい自分」にしてもらっている。

しかしもし、今の自分が「やばい」ころの自分のままだった場合、周りの人たちは今と同じように自分と関わってくれるかと考えると、とても心配になる。

逆もある。
「やばい」頃の自分。
犯した誤ちや失敗。そのせいで失った信頼や人間関係・経験。

もしあの頃の自分に、今くらいの余裕があったなら、そうはならなかった。
もっといろんなことを積み重ねられたかもしれない。

そんなことを考えていて、ふと思ったことがある。
自分が他人と出会う時、それはその人の長い人生の「ささいな一瞬」なのだ。

かまぼこを思い出して欲しい。
かまぼこは美味しい。
夏の暑い日にかまぼこにマヨネーズをつけて食べてビールを飲めば、幸せになれる。できれば晴れた17時ごろだとなおいい。
三ツ矢サイダーでもコーラでも可能だ。

人生はかまぼこだ。
長い一本だけど、その時その時は「一瞬」の断面になる。

画像1

「自分」は、本当はまるまる1本で「自分」なので、仮に「やばい」一瞬(一時期)の断面があっても仕方ない。
誰にも少なからず「よくなかった時期」の自分がいるのではないだろうか。

仮にそんな時期(一つの断面)があっても、その後頑張って何かをしていたら、それも含めた一本で評価して欲しい。

きっとそれが、みんなの「自分に対する想い」ではないだろうか。

では、他人に対してはどうだろうか。
今目の前にいる人が少しでも「やばい」と、この人はやばい、と判断することはないだろうか。
僕はある。めっちゃある。

下手したら数年経っても「あの人はやばい人」と思い続けているかもしれない。

本当はその人の長い人生の、ほんの一瞬しか見てないのに、だ。

しかもその一瞬の、一側面だ。
職場の顔・家庭の顔・恋人への顔・動物への顔…..etc

そのうちのどれかに出会い、その一瞬で判断(評価)してしまう。
あるいは、されてしまう。

だけど、よくよく考えてみると、それはものすごく危険ではないだろうか。

他人の、あるいは自分の、これからの可能性を全て削り取るような行為になってしまわないだろうか?

僕らは、他人の人生の「一瞬」に出会っている。

他人は、僕らの人生の「一瞬」に出会っている。


良くない人だ、と思う人に出会って、低く評価したとする。
でも「その人」が「良くない」のではない。「やばい」のでもない。

その人の「良くない一瞬」に出会っただけなのだ。

その時だけの評価なんだ。
自分も、他人も。

他人から少し低い評価をされても、何かやらかしてしまっても、どうか必要以上には気にしないで欲しい。
あなたはかまぼこだ。

好きじゃない人、嫌な人、どうしようもない人、困った人、周りを困らせる人。
他人を少し低く評価しても、それがその人の全てだと思い込まないようにしたい。
そのひとはかまぼこだ。

僕のことを、このブログだけ見て「やばい」と思わないで欲しい。
こんなかまぼこポエムを書くのは初めてだからだ。

一瞬は一瞬だ。
一本じゃない。

僕らは、他人の人生の「ささいな一瞬」に出会っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?