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#3 「しぜん」と「じねん」の違い / JINENコトハジメ

・ Podcast「JINENコトハジメ」の文字起こしを中心としたpostです
・【文字起こし】の部分は無料でお読みいただけます
・【解説】【参考文献】の追記後は、その部分は有料公開にする予定です
・ コメントや質問用のFacebookページを用意しています
 (どなたでもお気軽にご参加ください)

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【Podcast #3】

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【文字起こし #3】

山田:
皆さんこんにちは、JINENコトハジメのPodcast第3回始めたいと思います。
このPodcastは「自然経営ってなんだ?」というのを、自然経営研究会の発起人の1人である山田の立場から語っていくシリーズです。
今日の聞き手は平手さんをお呼びしています、よろしくお願いします。

平手:
はい、よろしくお願いします。

平手喬久(ひらてたかひさ)

 自律自転型マネジメントの専門家。4知(形式知・暗黙知・集合知・身体知)を大切に「自然(じねん)に生きる」をテーマに、週2回温泉に行きながら時間と空間的に自由なワークスタイルをして生きている。事業立ち上げ推進・設計やグループコーチングでの意識変遷・経営者の1 On 1で本質を確認していくセッションは定評がある。
 BAR、ネットベンチャーの立ち上げから事業バイアウトまでの経験を経て、外資系の大手コンサル会社で大手製造業、物流、通信会社、精密機器メーカーなどの事業改革・IT推進・組織設計、タレントマネジメントに寄与。2010年に独立しコアインテンション(株)を設立。支援先の企業規模を5倍へ。大手企業のグループ37社の業務改革を2年で完遂し運用コストを40%削減に成功するなどの実績を上げる。
 自然な生き方する人の集合組織として、個々の関心ベースで熱量に応じた、無理のない経営スタイルを実現したいとこよなく願い2020年 自然経営研究会の代表理事に就任。

山田:
前半は僕から説明を中心にして、後半は2人で対話しながら、ご質問とかコメントをいただきながら話すという形式で今日もやっていきたいと思います。

今日の第3回は、自然(しぜん)と自然(じねん)の違い、自然経営という言葉を使っているので、これは何なんだというところを話したいと思います。

今日の回は、最も語るのが難しいやつが早速第3回に来てしまったなと思ってるんですけれど、自然(じねん)という言葉を使っていることが、すごく自然経営で大事にしている価値感や空気感にすごく通じていると感じています。
少しでもそこの感じが、今日の平手さんとの対話の中で伝わってくれればいいなと思っています。

山田:
では前半はまた簡単に説明させてもらいたいと思います。
もともと自然経営という言葉を付けたルーツを辿ると、当時「ノリで決めた」感があって、日本的な経営の仕方って大事、そこをすごく出したいねと思って、色んなワーディングをそ探しました。その中でなんとなく「しっくりきた」言葉として自然経営とつけました。

その後に、そこに色んな意味を僕は込めていった中で、実は後付けではあったんですけれども、自然(じねん)ってそもそも何なんだ?っていうのをすごくたどって行きました。
すると色々な本当に深い東洋的なことが出てきて、すごく僕らが見たい自然経営という感じが表れてくるんじゃないかなと思って、この言葉にこだわって今は考えています。

もともと自然(しぜん)と自然(じねん)って何が違うんだということを調べると、1800年頃に、当時オランダ語かな、natuurっていう言葉を日本語に訳したときに「自然」という言葉を付けたのが、もともとの自然(しぜん)と自然(じねん)という言葉の意味が違ってきた頃なんじゃないかなと思っています。

自然(しぜん)つまりnatureって何なんだっていうと、人間が含まれているというよりも、人間の世界の外にある自然界、山とか川とか海とか、そういう外にあるものとして捉えているのがnatureの意味に含まれる。

一方もともと日本語による自然(しぜん)・自然(じねん)という言葉は、すごく重なってるんだと思うんですけど、自分とか人間も全部含まれているある状態の中で捉えている言葉だった。そこにnatureという入ってきた言葉と、自然(しぜん)・自然(じねん)という言葉の違いになったらしいと。

もっと辿っていくと、自然(しぜん)って日本語の中では「自然な」とか、形容詞や副詞で使うことも多いんですけど、natureって基本的に名詞。そこにある何かっていう「もの」と、「自然な流れ」とか「自然な状態」とかっていう副詞とか形容詞みたいな、違いがある。
自然(じねん)というか日本のもともとあった自然(しぜん)という感覚と、nature、対象となっている「何か」みたいなことが、もともとすごく違ったんだなっていうのが、どうやら言葉が大分重なってきたらしい。

一方でどっちの言葉にも共通しているのは、「人為的なもの」「人が何かをするもの」ではない、ということ。それがどっちも共通して根底にある。

これを、「なんでこの違いが出て来るのか?」みたいなことをどんどん掘り下げていくと、その先に見えてくるのは、西洋と東洋、この区分けも多分いろいろあるって話なんですけど、どうやら「西洋的な捉え方」と「東洋的な捉え方」、そこがそもそもだいぶ違うみたいなことになります。

西洋の捉え方ってもともとでいくと、基本的には世界は固定的なものだし、要素還元して分けていくと、神の作ったすごいシンプルな法則が最後そこにあって、それを理解すると世界はわかるんだ、という捉え方になっていきます。
東洋的な捉え方って、もっと世界が流動的で全て複雑で、関係性で絡み合ってる世界の中にあって、色んなものが複雑に絡み合って関わり合っているので、どこかだけを取り出したら分かるみたいな世界じゃなくて、全部続いている連続的なもの。
さっきちょっと言った「自然な」とか、動詞とか形容詞とかで取られるみたいに、世界が動詞でどう体系化しようかみたいな捉え方が、どうやら東洋的な方に近いらしい。

そのnatureという言葉と、自然(じねん)っていう言葉で言ってるような、世界を分けてもらいたい的な世界と、それから全部動いていてその中をともに進んでいる、その中に自分もいるものとして世界を捉えてるみたいなことが、すごく自然(じねん)という言葉だったのかなということが、ベースとして大きな違いではないかなというふうに、だんだん見えてきました。

この辺を、言葉で語れば語るほど難しくなってくるんですけど、「分けて捉えてる」的なものと、「動きながらそこに一緒にいる」ことだよね、という感覚の違いが、すごく自然経営と言っている空気感とか合わせたいことの

実は言葉のルーツにすごい近いんじゃないかと思っていて、結果的に、たまたまつけた自然経営という言葉だったんですけど、すごく本質的に僕らが言いたい大事なあたりがそれにあるんじゃないかと思っています。
ここの感覚は説明をすると難しいですけど、うまく伝わっていくといいなというのが、ぜひ何か、また一緒に入れていくといいなというふうに思ってるあたりですね。

平手:
改めて、山田さんから見た自然(じねん)はどういうものだと思うんですか?
自然(じねん)とは何かって言われると、どういう感じ?

山田:
自然(じねん)とは何か、前の回でも言った「あるがままに委ねる」にすごい近い感じがしていて、そこに私っていうものが強くいるというよりも、全部が流れの中で本当に動いているっていう感覚を持っていることだと思っています。
その中の一つとして、「私」とか「私の大事にしたいこと」もあるんですけど、過度にそこが強いとか大事というよりも、「それも一つとしてあるよね」っていう感覚で全部動いている、というのがすごく自然(じねん)的だなと思っています。

さらに、今は「私」っていうことを言ったんですけど、それをそのまんまちょっと広げて、「組織」って言ったときにも結構近いものだと思っていて、組織には絶対に1個正しいもの、例えば「ミッション」とか「ビジョン」とか「絶対やる目標」とかがあるっていうよりは、組織っていうものも、色んなものがある中の一つとして動的に存在してるものなので、この組織は「これだけをするために、これを達成するために存在してるんだ」って決めつけるのではなく、色んなことがあっていいよねっていう中で、組織自体も動的に漂って存在している、みたいな感じがすごく自然経営ぽいかなというふうにも思っています。

平手:
なるほど、動的に存在してるのかですね。それ改めて、自然(しぜん)経営っていうので今みたいに語ってみるとどういう感じになっちゃう?

山田:
もとでいくと、自然(しぜん)経営にすると、だんだんと自然農法みたいになってくるということで、言葉としての響きで割と決めたんですけど、自然(じねん)経営という言葉を付けて、自然(しぜん)よりも自然(じねん)にして良かったなと思うのは、僕らがそんなに普段触れてない東洋的な昔の捉え方とか、世界の捉え方、感じ方みたいなことにすごく繋がっていく言葉だと思っていて。
自然(しぜん)っていう言葉を使ったときって、どこかで機械的に組織を作るとか、分けていって理解するみたいなことがニュアンスとして強くなっていく気がする。後から意味をつけているし、僕らも分かりきってないことがまだまだある気はするんですけど、自然(じねん)という世界の中で経営をするという言葉になったのは、結果的にすごい良い言葉をつけられたんじゃないかなという気はしています。

平手:
なるほど。もうちょっと自然(しぜん)と自然(じねん)の違いって意味でね、自然(しぜん)って自然体とかっていうそういう意味合いもあるじゃない。そういうところとその自然(じねん)っていう言葉のコントラストを置いたときっていうのはどういう違いだったりするんだろうか?

山田:
なるほど、自然体とかっていう言葉とはそんなに、距離を感じないなと、あくまで僕の感覚で思いました。
もともと英語のnatureにせよ、さっきちょっと言った「人為的でない何か」みたいな状態を指すものとして、真ん中は重なりとしてあるねっていうことをどこかで学んだときに、その感じにすごい近いなと思っていて、「自然体」とか「自然な状態」っていうのって、力んでこれをやってるとか、固める、確固たる状態にするみたいなことよりも、より流れに委ねるみたいな感じの状態をうまく言えている。
そこでいくと、あんまり変わらずに大事なことはそこにあるかもしれないですね。

平手:
より自然体に近い形なんだけど、それでもやっぱり自然(じねん)という昔から日本による言葉とか、そういう東洋的な思想を含まれているものが、すごくフィットするだろうっていう感覚だった?

山田:
フィットするんではないかなということを、ここの言葉ってなんだろうって深めていく中で、そうかなっていう気はしますね。

あと、たまたまなんですけど河合隼雄さん大好きでよく読んでるんですけど、河合隼雄さんの本を読んでいたときに、彼は日本で初めてユング心理学の学校をスイスで出て日本に持ってきた人なんですけど、心理療法って四つのモデルに分けられるみたいなこともあると書いてあるのがあって。
それって、医学モデル、教育モデル、成熟モデル、自然(じねん)モデルって四つであって、最初に言った医学モデルほど、クライアントを「治す」っていう関わり。悪いところを見つけて、そこを処方するっていう、いわゆる西洋医学的な医学モデルっていうのが一番「治す」ようなパラダイム。

教育モデルってカウンセラーとか臨床心理士が悪いところをどうにかするんじゃなくって、ここにありますよって教えてあげて、クライアントが自分で変われるように教えてあげて、だんだん自分で「治って」いく。
三つ目の成熟モデルだと、クライアントが変わるのを、本人が成熟していくのを待っていくっていうスタンスでどんどん関わっていくっていうのがカウンセラーだねって言っていて、より「治る」になっていく。

この先に自然(じねん)モデルがあるって河合隼雄さんが言っていて、それって老子とか、道と書いて「タオ」とかっていう話につながっていくんですけど、カウンセラーが、自分が整っている状態でそこに一緒にいると、もう因果関係とかですらなく、自然(しぜん)とそこの状態が良くなっていって、クライアントも良くなっていくんだっていう話をしていて、臨床心理士、カウンセラーの本当の目指す姿ってその辺の自然モデルにあるんじゃないか、みたいなことを書いていたことがあった。

すごくこれは近いことを言っている気がしていて、組織って人が「変えられる」ものではなくて、結果的に「変わって」いくものだよねっていうことを、今度始める自然経営塾の中でもよく言ってたりする。
何かを変えに行くとかじゃなくって、一人一人がその世界の中で整っていく状態、1人という境界すらよくわからなくなってくる感じもするような世界で、結果的に良い状態が立ち現れてくることに近づいていくのは、河合隼雄さんがおっしゃってることなのかなって思ったときに、自然経営って言ってることも凄いそこに近い気がしました。
これも本当、後付けでたまたま見つけて偶然の一致だったんですけど、なんとなく近いことを言っている気がするので、その辺のことが、もうそれもうちょっと僕ら自身も深められるのかもしれないし、より体感できてくると、もっと違う言葉でも語れるようになってくる気がします。

平手:
面白いですね。今のその自然(じねん)の名前が付けられたプロセス自体がすごい自然的だってっていうそういう世界でしょう。

山田:
そうですそうです。全然意図して付けてないこの言葉をつけたからこそ、こういう深め方をしているし、こういう捉え方をしているので、本当になすがままに、あるがままに一緒に進んできて、創発をしていると、結果こうやって立ち現れてくるみたいなことが、すごく自然的なのではないかな感じます。

平手:
今のところすごい大事だと思うので、もう1個だけ、自然(じねん)という言葉が立ち現れたときに、それを選ぼうっていうのはどういう感覚から選んでいった感じなの?

山田:
言葉として自然経営を選んだときに、ですよね?
当時、4,5,6人ぐらい何がいいかねっていうのを、ブレスト的に色んな言葉をアイディア出しながら並べていったときに、なんか「しっくりきたね」みたいな感じでみんなで決めた、というぐらいだった気がしますね、本当に。
理由や理屈を今からつけると多分できると思うんですけど。いくつかあったんですよね。
「英語でも伝わる言葉にしたい」とか、例えば。「改善」みたいに、日本から世界に言えるような言葉にしたいとか、何らかすでにある、今使われてる言葉じゃないものが大事な気がするっていう感覚があって、いろんな名前を出していた。
自然農法っぽくなるねとか、半分冗談でしたけど、すでにある組織の捉え方とかじゃない言葉にしたいなとか思ってました、とか、そういういくつかの理由は、なんとなくそこで関係してたメンバーの中で共有されてた気がするんですけど、その基準に合致してよかったみたいな話ではなくて、「あ、なんかいいんじゃない?」みたいな感じで決まりました。

平手:
ありがとうございます。

山田:
はい、ありがとうございます。
こんな感じで、僕の中では最も難しかった自然(しぜん)と自然(じねん)の対比のことについて、一旦、今日はこんなふうに捉えていますという話をさせてもらって、この対話自体、またいろんなプロセスの中で、もっと違った捉え方ができてくると思うので、ぜひそのときはまた更に深めて語ることができたらなというふうに思っています。

ということで第3回、今回は自然(しぜん)と自然(じねん)の対比ということを平手さんと一緒にやらせていただきました。
平手さんどうもありがとうございました

平手:
ありがとうございました。

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やはりこの#3は語るのが難しかったし、率直に言えば、「自然経営」を知る上で、今回の内容は必ずしも「理解」する必要はないのかもしれません。
その意味で、平手さんが最初に投げ掛けてくれた「改めて自然(じねん)とは何か、と問われるとどういう感じなのか?」という問いは、伝えるべきメッセージに改めて向かうありがたいきっかけでした。

とはいえ、せっかくの機会であり、この回で伝えようとした「自然(かつ、じねん)」の背景知識について、主な出典の書籍を参照しながら改めて説明してみます。

【解説①】「翻訳の思想」から紐解く「自然」と「NATURE」の違い

まず最初に「しぜん」と「じねん」という言葉の違い

最も理解の助けとなったのは、「翻訳の思想 『自然』とNATURE」(柳父章)でした。
natureという言葉(厳密にはオランダ語のnatuur)に初めて「自然」という翻訳語が当てられたのは、1796年に遡ります。

natureが「自然」と翻訳された歴史は、意外に古い。寛政八(一七九六)年、稲村三伯によって出された日本最初の蘭日辞書「波留麻和解」(はるまわげ)に、natuurが、まず「自然」と書かれている。
(「翻訳の思想」P.52)

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