見出し画像

身体感覚で『論語』を読みなおす。 ―古代中国の文字から― (新潮文庫)

論語そのものについてというより、著者の安田さんの「論語の捉え方」に惹かれた一冊。人が「言葉」という道具を発明したように、「心」というものも3000年前ごろに言葉によって「出現した」ものだという。

「心」という漢字は、孔子が活躍するほんの500年前まではこの世に存在しませんでした。
で、ある日、「心」が出現した。王朝が殷から周になったころです。
その突然の出現に人々は戸惑い、「心」をうまく使いこなせないままに500年間を過ごします。そんなとき孔子が現れて、人々に「こころの使い方」を指南した、その方法をまとめたのが『論語』ではないか、そう思いました。

この本ではないけれど、安田さんのお話をどこかで伺ったときに、最近AIによるシンギュラリティと言われているが、人類にとっては「2回目のシンギュラリティである」という話がものすごく印象的だった。

「1回目のシンギュラリティ」というのは、上記にあるように、「言葉によって心を発明した」ときであるという。
この文脈で捉えたときに、AIがもたらすのは「シンギュラリティ」にはたらない。なぜならば、それは「機械」という主体が、コンピューター言語という「言葉」心を獲得することであり、実は1回目と同じことである。

そして、その文脈で捉えたときに、「2回目のシンギュラリティ」とは「言葉を超えた世界」へと人の心が到達することだーーー。

細かな内容はやや失念してしまったが、大筋としてはそういう内容だった。この「言葉という発明品」という捉え方が非常に強く印象に残った。

#論語 #シンギュラリティ #身体知

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?