天童荒太 『家族狩り』

幻世(まぼろよ)の祈り―家族狩り〈第1部〉
遭難者の夢―家族狩り〈第2部〉
贈られた手―家族狩り〈第3部〉
巡礼者たち―家族狩り〈第4部〉
まだ遠い光―家族狩り〈第5部〉
(天童荒太・新潮文庫)

1995年に新潮社から1冊の単行本として出版され、山本周五郎賞を受賞した『家族狩り』、ずっと文庫に落ちたら読もうと楽しみにしていたのに、一向に文庫にならず(これほど文庫化を待ったのは椎名誠『アド・バード』以来)、とうとう、図書館で、他館から取り寄せ依頼して単行本を読んだのが昨年(2003年)9月。それがとうとう2004年夏に文庫化されたので、再読、単行本と文庫の感想をまとめてあげておく。
まずは昨年(2003年)9月に単行本を読んだときの感想を書いておく。
<ここより昨年の日記引用>
作者プロフィールのところに、「想像力の限りを尽した凄惨な描写には定評がある」なんて書いてあって、ところどころ、読むに耐えないくらい恐ろしい惨劇のシーンが克明に描かれているのがこわいのだが、でも本当に怖いのは、むしろ、人間の心に巣食う病巣かも、というのが天童荒太の作品の基調である。『孤独の歌声』(新潮社)でも、『永遠の仔』(幻冬舎)でも、家族関係の形成がうまくいかなかった結果としてのトラウマや犯罪が描かれているが、この『家族狩り』の中にもそうした、人格形成以前からの家族関係の結果として、自分の配偶者や子どもとうまく向き合えない人たちが沢山描かれている。結局、2段組562ページの大著を、金曜と土曜とかけて読み上げたのだが、中盤で、この人があやしい?、と思った人は結局予想たがうことなく本当に怪しかったのだが、いわゆる動機については、本当に最後に来るまでわからず、これは犯人探しではなく動機探しのミステリーだったのだな、と思った。人間関係が妙に密すぎて、不自然な感じがする、というのと、主要登場人物について、やや強運に描きすぎの部分が、なんとなーく気になったが、やぁ、本当に恐ろしい本でした。人はこの本を読んで、「うちの家族はここまでひどくないわ」とか思って安堵するのだろうか? そうでも思わないと怖くて読んでられないかも。山本周五郎賞受賞作として、発行から8年、一向に文庫化されないのが気になるところだが、文庫になって軽々しく読む本でもないのは確か。<日記引用修了>

『家族狩り』2004年版 の感想
ストーリーの基本線は1995年版とそんなに違わないのだが、ラストの犯人の動向が、かなり違ってしまったので、最後の印象はかなり変わった。
小道具的には、95年には所有者がまだ限られていた携帯電話を誰もが持つようになり、喋る・メールする、という用途をどの登場人物も駆使するようになり、それがストーリー進行に大きな影響を与えるようになっている。
紙数が増えた分、95年版では出てこなかった、巣藤や椎村の家族の事情とか、新キャラのケートク(妙に魅力的)とか、游子の祖父の話とか、物語に奥行きを与えているが、正直言って、95年版ですらかなり長かったのだ、あまりに濃く、それぞれのキャラクターの背後まで書いてしまっていることで、読者はちょっと疲れるかも...。
家族が心のよりどころとならないと、人間は不完全な精神を抱えて成長することになる、という基調が、天童荒太のどの作品にも見られるのだが、それを作者は逆に超ラディカルな形で犯人たちに語らせる。誰でも、親が自分に対しておざなりであったり、納得のいかない対応をしたりされた経験を持っていると思うが(それは愛情の不在ということではなく、自分の家族だけに集中力を100%持って生きている訳ではないゆえの対応なんだが)、犯人たちは、親は常に子どもに対して、子どもが不満を持たないような十全の愛情を与えなくてはいけない、という主張をする。それを突き詰めた末の凄惨な犯罪なんだが、その、ねじくれた論理に眩暈しつつ、じゃあ、わたしは家族についてどう思っているのか、どう振舞っているのか、考えれば考えるほどわからなくなる。
短いエピローグで、主要登場人物たちは一応かりそめの幸せを得る。でも、ここが最終目的地ではないのだ、と作者は言っていると思う。
主要登場人物の一人である馬見原のモノローグ的部分が多いのだが、決して自分の幸せを優先させるためのエゴを主張している訳ではないのに、周囲の誰もを不幸にしている状況に怒りすら覚えた。悪人じゃないのに悪人みたい...。95年版より強くなった奥さんの成長が救いか。

(2004年8月6日/17日のブログ記事の転載)

#読書 #天童荒太 #家族狩り #新潮文庫

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