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植本一子『降伏の記録』(河出書房新社)

植本一子という写真家の、自分を見つめ、家族を見つめ、他者を見つめる記録、

かなわない

家族最後の日

から少し間があいたが、その間に写真集『フェルメール』(ナナロク社 ブルーシープ)を読み、眺め、一息ついて、『降伏の記録』を読む。降伏、というのは、夫石田さん(ECD)が癌で逝去することなのか、と漠然と思いつつ読み始めたのだが、違った。『家族最後の日』を読んだときに、これは植本一子の私小説なのだ、と思ったのだが(事実をベースとしているのに、こんなにも私小説的であることが出来るのか、という驚き)、対峙してきた実母、そして夫、彼らが生きていて、何かを伝えられるうちに、自分は何か発信しなくてはならないのだ、という強い意思が湧いてくる過程を、書きながら確認するための本だった。降伏とは、もっと惨めで、直面したくないものなのだと思っていた。でもそうではなく、自分が今後どう生きていくかを確認する作業だった。

これがすべて事実に基づいて書かれているのか、と思うと、この本の中で出てくる多くの人(今はまだこの本を読まないであろう娘たちも含め)たちが、彼女にこう思われている、ということを知る機会がどれだけでもある状態でこれだけ赤裸々に書けることに、今回もまた驚く。酷薄だったり、他人から見てその優先順位はどうなんだろう、と思える部分が多々あったり、それでも多くの人が彼女に引き寄せられ、好意を示している。その魅力というか引力というか、そこの部分を彼女自身が言語化することはないので、彼女が自分のそばにいたら、どうしていたかな、というのがイメージ出来ない。台風みたいなんだろうか。その渦中で彼女はいつも何を見つめているのだろう。夫がいて、娘がいて、それでも人を愛し(客観的に見れば不義と呼ばれるような)、それをおずおずと夫に提示し、許容されることに驚いたり安堵したり。感情の在り方、その提示、何かを嫌になったり面倒になったりする心の動き、それらを一見思ったままに書き綴っているように見えるが、実際は熟慮して、どうやって提示するか考え、あのような文章になっているのだろう。それはとてもたくましい作業だ。表現者であるとはこういうことなのか、と考える。

対峙してきた夫は、この本の最終章のほんの少し後で逝去する。彼女はその死をどう見つめ、その後をどう生きるのか。それを見るのはまた別の物語。人生は物語である、ということをこんなに克明に描ける人をわたしは知らなかったかもしれない。

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