日本大学法学部トーマス・ロックリー先生の英語での主張と弥助関連の歴史資料との対応

弥助に関する書籍で知られる日本大学法学部准教授のトーマス・ロックリー 先生が出演する2つの動画、大学での講演と対談の内容を抜粋して紹介します。大学の講演については、最後にまとめた弥助関連の歴史資料との対応も示します。

ジョージタウン大学東アジア国家資源センターでの講演

アメリカのジョージタウン大学東アジア国家資源センターでの講演(African Samurai: The True Story of a Legendary Black Warrior in Feudal Japan)スライドを書き起こします。スライドのタイトルに開始時間を加えて、スライドごとに項目を示します。項目の前にある(C1)といった記号は、対応する弥助関連の歴史資料の通し番号を表します。(C3?)は一部しか対応する歴史資料に示されていないことを表します。

6:18 Yasuke Background(弥助の背景)

Until 20th century - 11 million plus Africans sold in the Indian Ocean
20世紀まで 1100万人以上のアフリカ人がインド洋で売られる
16th century - Japan embroiled in civil war
16世紀 日本は内戦
1549 - First Jesuit missionaries arrive in Japan
イエズス会の宣教師がはじめて日本に到着
c1577 - Yasuke employed by Alessandro Valignano in India as bodyguard
弥助、アレッサンドロ・ヴァリニャーノにインドで護衛として雇われる
1579 - Yasuke and Valignano arrive in Japan
弥助とヴァリニャーノ、日本に到着
1579 - 1581 Yasuke in Kyushu
弥助、九州に

11:23 1581 - Journey to Kyoto(京都旅行)

Valignano goes to Kyoto to ask permission to leave Japan
ヴァリニャーノ、日本からの出国許可を求めて京都に行く
In Sakai and then Kyoto, crowds of thousands gawp at Yasuke
(C1,C2) 堺市と京都で、数千の群衆にじろじろ見られる
Property is damaged, people crushed in crowds
(C1,C2) 人々が殺到して建物が破損する
Nobunaga demands to see who disturb his peace
(C2) 治安を乱した者(弥助)との面会を信長が求める

14:08 Meeting with Nobunaga(信長との面会)

Conversed in Japanses, Nobunaga impressed
(C3?) 弥助が日本語で会話することに、信長は感銘を受ける(?)
Did not believe skin colour - stripped to waist and scrubbed
(C2?) 信長は肌の色を信じなかった。上半身をまくらせ、洗わせる(?)
Truth realised, Nobunaga sends for sons
(C2) 真実に気づき、子供を呼びに行かせる
Throws a party for his guest
弥助のために宴会を催す
Gifts a large sum of money
(C2) 弥助に大金を与える
Asks Valignano to allow Yasuke into his service
弥助を信長自身の世話をさせるようヴァリニャーノに頼む

18:45 Why so interesting?(なぜ弥助は興味深いのか)

188cms, a giant in this age
(C) 188cm, その時代では大男
Good looking
イケメン
Intelligent
知的
Entertaining
愉快
Strength of ten men
(A2) 10人の強さ
Buddha often portrayed as black skinned
ブッダはしばしば黒い肌で描かれた
Many saw Yasuke as a divine visitor gracing them with his presence
多くの人が弥助を神の使いとして見ていた

21:20 1581 - Investiture(任官)

Appointed weapon bearer
武器所持者に任命される
Confidant on overseas matters
海外事情に関する側近
Given residence in Azuchi Castle
(A2?) 安土城の中に(?)居住空間を与えられる
Stipend
(B) 扶持を与えられる
Servants
弥助を世話する召使いをつけた
SWORD - formal recognition of samurai rank
刀 侍の階級の正式な認識
First documented non-Japanese samurai
(A1) 初めて記録に残った日本人ではない侍

29:10 1581/2 - On Campaign(軍事行動)

Yasuke was likely a fad at first
はじめは流行のようなもの
But soon won his lord's trust
徐々に信長の信頼を勝ち取る
Accompanied Nobunaga on campaing once definitely, probably twice
1度か2度の従軍時、信長に帯同する
June 1582 - Nobunaga sets out for western front with close entourage
信長は側近とともに西側の前線に出発する
Stays the night in Kyoto
京都に宿泊する

33:25 1582 - Last Battle(最後の戦い)

Akechi Mitsuhide, trusted general betrays Nobunaga
家臣明智光秀が信長を裏切る
13,000 against 30
明智勢13.000に対して30
Nobunaga performs seppuku
信長は切腹
Last order, "Yasuke save my head"
信長から弥助への最後の命令「私の首を守れ」
Yasuke takes head to heir
弥助は信長の首を信長の後継者に持っていく
Heir also defeated
信長の後継者も打ち取られる
Yasuke returned to Jesuit church
(D3) 弥助はイエズス会の教会に戻る

Black Experience Japan の Ranzo さんとの対談

Black Experience Japan の Ranzo さんとの対談(Was There Really A Black Samurai)での、トーマス・ロックリー先生の発言を抜粋します。トーマス・ロックリー先生は歴史学者であり研究者であり、先生の書籍は事実を書いた学術書であると主張している部分の抜粋です。

2:07 I work for a university called Nihon University in Tokyo and my job is a historian, researcher, and also a language teacher
historian: an expert in history (OALD)
私は東京の日本大学に勤務していて、仕事は歴史学者、研究者、そして語学の先生です。
3:18 he is a star he is literally almost treated like a god and the fact that he must be really scared there were thousands of people trying to get at him the building was being pulled down around him.
弥助はスター、文字通りほぼ神様のように扱われていた。数千の人々が弥助めがけて近づいてきて、建物を倒さんばかりだったので、弥助は驚いたに違いない、という事実があります。
8:20 I then wrote the Japanese book or the book that was translated into Japanese. It's, again, it's factual. It's academic. And that was popular.
そして日本語の本、日本語に翻訳された本を書きました。事実を書いた学術書です。そして、その本は有名になりました。
12:41 the Japanese book which I published two years ago was an academic book which delved in and in detective work worked out who he was where he came from and possibly where he went
私が2年前に出版した日本語の本は、弥助とは誰で、どこから来て、どこへ行ったのか、徹底的に調べた学術書です。
13:06 this is the academic
これ(信長と弥助)は学術書
17:15 he's given thirty-seven kilos of copper coins. that's an awful lot of money. and I think also that's a challenge to carry as well.
it's a joke in a way but nobunaga did. that's factual. that's absolutely (factual).
弥助は37キロの銅貨を与えられた。それは恐ろしく大量のお金です。そして、それを(屈強な体を持つ弥助が)運べるかという挑戦でもあったと、私は思います。ある意味冗談なのですが、信長は与えました。これは事実です。まったくもって。

弥助関連の歴史資料

[1] 国立歴史民俗博物館 総合資料学情報基盤システム(khirin)
https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/nmjh_kaken_medInterNationalExcange/E13652

[2] 「アサシンクリード」弥助問題に関する私見
https://agora-web.jp/archives/240721081916.html

[3] ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑩
https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/essay/20240724/

[4] 東京大学情報学環准教授 岡美穂子先生によるポスト群

(A) 信長公記
(A1) 巻十四・天正九年二月二十三日[1]
全文: 二月廿三日、きりしたん国より黒坊主参り候、年の齢廿六・七と見えたり、惣の身の黒き事牛のごとく、彼男健やかに器量なり、尒《シカ》も強力十の人に勝たり、伴天連召列れ参り、御礼申上ぐ、誠に御威光を以て、古今承り及ばざる三国の名物、か様に希有の物共、細々拝見有難き御事なり、
(A2) 信長公記 尊経閣文庫本(伝本の一つ)[2] ((A1) に続く記述)
「然に、彼黒坊被成御扶持、
名をハ号弥助と、
さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、
依時御道具なともたされられ候。」

(B) 家忠日記 [2]
1582年5月11日(天正10年4月19日)
上様(信長)御ふち(扶持)候大うす(デウス)進上申候くろ(黒)男御つ(連)れ候、身ハすみ(墨)ノコトク、タケ(丈)ハ六尺二分、名ハ弥介ト云。

(C) 宣教師による書簡
(C1) ルイス・フロイスから日本在留の宣教師に宛てた書簡(1581年4月14日、天正9年3月11日)[3]
「堺の市を出んとした時、丈の非常に高いビジタドールのパードレ及び我等と同行した黒奴cafreの色を見るため、無数の人が街路に待受けてゐた。堺は自由の市であるが、多数の民衆と武士が集ったので、我等の一行が狭い街を通過する際数軒の店を荒したにかかはらず、苦情を言ふ者はなかった。堺を出て駄馬三十五頭、荷持人足三、四十人及び我等の乗馬が約同数あり、黒奴もまた乗馬するやう頻りに勧められた。この道を進むに従って人が出迎へ、また多数の武士が同行して必要な馬匹を供給し、馬上で出迎へた武士も多数であった。」
(村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』雄松堂書店、なお松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第3期 第5巻』はcafreを「黒人」と訳している)
(C2) 同上 [3]
「復活祭日に続く週の月曜日〔三月二十七日、すなはち天正九年二月二十三日〕
信長は都にゐたが、多数の人々がわがカザの前に集って黒奴を見んとしたため騒が甚しく、投石のため負傷者を出し、また死せんとする者もあった。多数の人が門を衛ってゐたにかかはらず、これを破ることを防ぐことが困難であった。もし金儲のために黒奴を観せ物としたらば、短期間に八千乃至一万クルサドを得ることは容易であらうと皆言った。信長もこれを観んことを望んで招いた故、パードレ・オルガンチノが同人を連れて行った。大変な騒で、その色が自然であって人工でないことを信ぜず、帯から上の着物を脱がせた。信長はまた子息達を招いたが、皆非常に喜んだ。今大坂の司令官である信長の甥もこれを観て非常に喜び、銭一万〔十貫文〕を与へた。」
(村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』雄松堂書店)
(C3) イエズス会宣教師ロレンソ・メシヤの書簡(1581年10月8日、天正9年9月11日)[3]
「パードレは黒奴一人を同伴してゐたが、都においてはかつて見たることなき故、諸人皆驚き、これを観んとしてきた人は無数であった。信長自身もこれを観て驚き、生来の黒人で、墨を塗ったものでないことを容易に信ぜず、屢々これを観、少しく日本語を解したので、彼と話して飽くことなく、また彼が力強く、少しの芸ができたので、信長は大いに喜んでこれを庇護し、人を附けて市内を巡らせた。彼を殿Tonoとするであらうと言ふ者もある。」
(村上直次郎訳『イエズス会日本年報 上』雄松堂書店)

(D) ルイス・フロイス『日本年報』1582年11月5日付京都にいたカリヨンという神父の報告 [4] 上から順に(D1), (D2), (D3)