見出し画像

(私のエピソード集・26)三つの課題

物語を書きたいという〈夢の実現〉のため、修行として、自分に三つの課題を課すことを考えた。

『足長おじさん』『秘密の花園』『ハイジ』『ケティ物語』『赤毛のアン』と読み進めるうち、私もいつかこんな楽しい物語を書きたい、と思うようになった。でも、手紙なら、国内に数人、外国にも3人ペンパルがいて、書き慣れてはいるけれど、物語を書くのは、とても届きそうもない夢に思えた。

作家たちは、夢を実現させるまでに、いろいろな修行をしたに違いない、と想像して、こんな課題を与えることにした。

(1)何か物語を書いて、少女雑誌に投稿してみる。
(2)最も分厚いノート3冊を、いろいろな文体で埋める。
(3)このふたつ達成後、突拍子もないことをやろう!

まず「短い物語」をまとめてみた。60余年前のことゆえ、どんな話か中身は思い出せないが、ノラさんが話してくれた、教室での失敗話だったことは覚えている。

それを『少女』という雑誌に送ったところ、ほどなく〈採用〉の返事が届いて、仰天した。ただし、内容は面白いが、文章が拙すぎたようで、漫画の原作として、新進漫画家の上田とし子の絵で、掲載されることになった。

原作者の私の写真が大きく載せられ、高2から高3の春にかけて、たくさんのファンレターが届くようになった。全部で200通を超えていた。ほぼ全員に返事を書いたし、その後も文通が続いた人もあって、国内のペンフレンドが10数人に増えた。

中には大学生や男性からの手紙もあり、母は差出人が異性とわかると、私より先に開封し、先に返事を出したりして、私を怒らせた。

編集者からは、他にも書いてほしい、と手紙をもらっていたのに、私はひとつ目の課題達成! と満足して、投稿はそれきり止めてしまい、(2)の3冊の厚いノートに、取り組み始めたのだった。

(この『少女』投稿には後日談がある。修学旅行は東京に行くと、編集者に宿も知らせてあったので、編集者が宿まで訪ねてきてくれたのだ。翌日、東京の希望する場所を案内してくれるという。付き添いのY先生たちが相談しあって、グループ単位でなら許す、と言われ、私たち4人グループは、翌日〈三越デパート〉と〈銀座のフルーツパーラー〉に連れて行ってもらった。デパートでは、欲しいものを記念に上げる、と言われ、私はオルゴールを買ってもらった。フルーツパーラーでは、当時『少女』によく載っていた童謡歌手と、握手し話もした。彼女の膝小僧の美しさに、田舎の子とは違う!と、私は見とれてしまった。思いがけない〈おまけつき〉投稿となった)

3冊のノートの方は、実に楽しかった。『足長おじさん』風に手紙にしたり、詩にしたり、何を美しいと思うか、何が好きか、嫌いか、エッセイ風に書いてみたり、日記になったり、憤慨したこととか、夕暮れの黄金色に染まる大気の美しさとか、何でも思いにまかせて書いた。

受験生のはずなのに、ペンパルへの返事の他に書くノートだから、時間の減ることといったら・・! それでも、私の喜びであり、精神安定剤にはなったし、思いを細かく分析して、言葉にすることも覚えた。( 実は、一家で兄夫婦と同居し始めてから、母の兄嫁いびりが続いていて、私は母に抗議したいのに、どうしても口に出して言えないせいで、怒りがたまってくると、煮え湯の入ったやかんや出刃包丁など、危険な物まで、ぶん投げてしまう私だから、書くことで別世界へ心を飛ばして、心をなだめる必要があったのだ) 

そして、ついに3冊書き終わると、夢への階段を1段上った心地になれた。

(3)は、本物の苦痛な修行を課すことにした。そうでなければ、修行の意味がないような気がした。(1)も(2)もあまりにあっさりクリアしすぎて、達成感をいくぶん損ねる面があった。

そこで考えて、公立高校の当時の便所の、言語に絶する汚い場所を、誰にも見られないよう、素手で10日間掃除することに決めた。和式便所で、床はコンクリートなのか、木製なのかはっきりしないほど、どこもかしこも真っ黒に汚れていた。当時、誰が掃除を担当していたのだろう? 

男子便所は除外して、女子便所に限って初めてみたが、人の出入りが激しく、隙間を見ては、ささっとやっては隠れ、さっと戸の中へ逃げ込んだりして、とにかく一日一日、日を重ねていくごとに、ドキドキしていた。

苦痛とまでは言えず、私って何でも楽しめるんだ、と思えたのは新鮮な収穫だった。

10日間やり通して、やった! という達成感が味わえた。いつの日か、自分の夢の階段を上っていけるかもしれないと、その足がかりを得たような気がした。

高3の後半も終りかけていて、進路を決めなくてはならなかった。担任は国立大学を受けろと、強硬に進めるのだが、私の数学では、受かるはずはないと思いこんでいた。(実力考査で200点満点の0点をとり続けていて、それでも学年で10番台を保っていたので、当時、男女別クラスの男子らが興味を抱き、どんな子かと待ち伏せして、顔をたしかめたことがある、と後の同期会で打ち明けられた。後に数学教授と結婚するのだから、人生ってほんと不思議!)

慶応大学出身で、東京での事情を良く知っているT先生が、私に東京女子大を進めてくれた。「倉敷では、津田塾や日本女子大ほど知られてないが、自由な雰囲気で知性は高く、何より君に向いていると思うよ」と言ってくれた。受験してみると、たしかに、試験問題が実にユニークで面白くて、ここにしようと決めたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?