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(3) お兄ちゃんの自転車

一郎は、その自転車をけとばしそうになりました。その時、車じくのところに、名前が見えました。

ー中山一郎ー

と、マジックで四角く書いてあります。田中トオルの文字は、黒くぬりつぶしてあります。
やっぱりそれは、お兄ちゃんからの、一郎へのプレゼントでした。そうじ きらいのお兄ちゃんがせっせとみがいているすがたが、うかんできました。

ペダルのねもとから、車りんのリームまで、よくよくみがいて、さいごの しあげに、一郎の名前まで 書きこんでくれたのでした。

さよなら、イチロ!

お兄ちゃんの声が きこえてくるようです。

こんなの、こんなの、いらないやい、って、けっとばしてやりたいのに、 一郎はサドルにしがみついて、泣き出していました。


2学期がはじまって、のろのろと2週間が すぎました。マンションの  中は、うだるような あつさがつづいています。

げんかんの水そうには、たった1ぴき 小ガニがのこっています。ヤドカリもほかの小ガニも、いつのまにか 植木ばちから 消えていました。

毎朝、一郎は、たったひとりで、とぼとぼと学校へ出かけます。お兄ちゃんがいなくなってみると、だれも友だちがいないのでした。やなぎマンションには、2年生は ひとりもいません。いままで、つりや、キャッチボールや、かくれんぼができたのは、お兄ちゃんに くっついていたからでした。

サンダースに入れてもらうゆめは、とうに消えていました。

お母さんは けさもしんぱいして、こう言いました。

「4かいの村田くんは、3年生だけど、おねがいしてみようかしら」
「いいよ、そんなことしないで」

るすばんしてるから、いい。一郎は口をきゅっとむすんで、言いました。 お母さんは市役所で、パートではたらいています。出かけるまえに、一郎のおやつをじゅんびしながら、こう言いました。

「トオルちゃんだけが、友だちじゃないのよ。げんきを出して、外でだれかとあそぶのよ」

一郎はなまへんじをして、いそいでランドセルをしょいました。そんなこと言われたって、そうかんたんにはいかないのです。でも、お母さんに 友だちをさがしてもらうなんて、にげだしたいくらい、はずかしいことでした。

その日、学校から帰ってみると、たった1ぴきの小ガニが、足をちぢめて 死んでいました。がっかりして、泣くにも泣けない気持ちでした。

へやの中は、むんむんして、頭にできたあせもが、ちくちくします。がまんできずにかじると、あとがヒリヒリしてきます。むしゃくしゃして、マンションの外へ、とびだしたくなりました。

ふっと、トオル兄ちゃんの自転車を思い出しました。あれにのって、遠くへ行けば、すっきりするかもしれません。おじいちゃんの自転車がとどく10月なかばまでは、あれでがまんしなくては。

一郎は、おやつのソーセージとビスケットを、ポケットにつっこんで、へやをとびだしました。

マンションのうらの川ぞいに、東へ上って、右へまがると、サクラ並木の 坂道があります。ゆるい上り坂が200メートルほどつづいて、そのむこうに、あのきゅうな下り坂が、公団住宅のほうに のびています。

一郎は、ガースン、ガースンとこすれ音をたてる自転車で、川ぞいに走って行きました。こんな古い自転車なんか、と見下していたのに、のってみると スイスイ走ります。にぶいこすれ音といっしょに、トオル兄ちゃんの笑い顔がうかんできます。お兄ちゃんがうしろにのってるみたいな気がしました。

川とわかれて 右へまがり、サクラ並木にかかりました。はばのせまい  さんぽみちが、ひとすじ、坂の上までつづいています。

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