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『マリッペ』追記 (2)

私の学年は小学4年生以後、大変荒れたクラスに変わっていった覚えがあります。私は早生まれの6歳で、朝鮮北部から引揚げたせいで、ほんとうは「兎・辰年」生まれの1学年上のクラスに入学するはずだったのに、あちらでは学校が閉鎖されて、私は入学できないまま帰国したため、皆より少し  年上で、「辰・巳年」生まれのクラスにされていました。本来、自分がいるはずの「兎・辰年」の学年は、実に穏やかで、男女仲よく、先生たちともよい関係なのが見えて、私はあの中にいたかった、と何度も思ったものです。

大熊昭一については、4年生の間は、担任教師との関係は最悪が続いていましたが、5年生に持ち上がっても同じ関係が続いたため、ある日、彼は大声でわめいたあげく、教室を飛び出して以来、授業には一切加わらなくなり、外から窓に石を投げる、をくり返したり、大声を上げて授業妨害したり、下級生をいじめたり、とやりたい放題の、手のつけられない反抗児になっていました。

彼の母親が担任教師に呼ばれて、教室で面談しているのを、何度か見かけたことがあります。親も教師ももう手の施しようがないほど、性格が変わってしまって、他者との関係はゆがんでしまっていました。

4年生前半の頃、彼がどんな気持ちで、教師の手助けをしたがっていたかを、私はよく見て察していたので、いつか先生に彼を弁護して話してみようと思いながら、私自身がひいき者と呼ばれたことが嫌なのと、先生への嫌悪感で近づくことができず、勇気を持てませんでした。あの時、自分に丁寧に根気よく先生に話す勇気があれば、彼の人生は大きく変わっていたかも、と後になるほど後悔し続けていました。善意を否定され続け、人への信頼を失い絶望的になってしまった姿なのだと思えてなりませんでした。話したところで、担任教師が受け入れてくれたかはわかりませんが。

中学生になってから、彼の様子はますますひどくなり、下級生から金をまき上げたり、恐喝などもして、少年院に送る噂がたびたび聞こえていました。私が引揚げ者とわかって、歌いはやし続けたのも、彼でした。

同じ学年には、他にも少年院を噂される男子が数人いました。そのうちの 1人は、授業中に中年の女先生にナイフを持って向かっていき、今にも事件になりかけたこともありました。女先生が強気に出て、「刺すなら刺して みな!」と声を荒げて立ちはだかったせいで、彼は無念な顔で席に戻りましたが。

そのように全体的に、荒れた学年であったと、私は思っていましたが、ずっと後の同窓会では、男女の仲は穏やかになっていて、私にも少年時代の打ち 明け話をしてくれる人もあり、東京の私宅にTELをよくくれたりで、みんな昔のことを懐かしく思うことはあっても、嫌な荒れた時期だと記憶している人は、ほとんどいないようでした。

大熊昭一は中学卒業後、暴力団関係に関わってもいた噂を聞き、彼の変化は、あの4、5年時が始まりだったのだ、と私には思えてなりません。

中学2年時、ナイフで教師を襲おうとした男子は、卒業後、本格的に暴力団の一員となり、後に刑務所にも入ったそうですが、最後は癌で入院し、30代後半で亡くなったそうです。その彼が、「中学の同窓会はやらないのか、皆に会いたいなあ」と、病床で何度も言っていたと、後に聞かされて、私は胸を打たれ、涙したことがありました。(彼が被差別部落民の悩みを抱えていたことを、私は知っていたので、尚のこと・・)

19歳以後はずっと東京住まいの私ですが、故郷との繋がりは親友たちを 通して多く伝わってきます。私たちの学年は、30代から40代にかけて、7人の同級生が自殺をしたことをその当時に聞かされ、そのうちの6人が 男子だったそうで、私の学年はなんと痛ましい学年だったかと、うちひし がれたことがあります。それまでに、感動とか心温まる思い出を持てない ままに、過した結果だったのでは、と思ったものでした。

マリッペを書いた背景には、こうした、後々のゴタゴタを知る前の、無邪気ながらも新しく知ることも多かった〈4年生〉という1年を描いてみたのでした。

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