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(234) 最期の碁会

洗面台を磨いていた早苗は、窓の外を行きつ戻りつする足音に気づいて、伸び上がって見ました。

あ、水田さんだ! 碁会は1時なのに、早すぎるわ!まだ11時前よ。

あわてて玄関に走りました。母は近所の店へ足りない物を買いに、父は碁盤をもう1台借りようと、高尾の友人宅へ車で出かけていました。

「いやあ、ちょっと早すぎたか」

一応恐縮しながら、嬉しそうに10畳の座敷へ上がって、水田さんは用意された3台の碁盤の1つに向かいました。


「今日こそ先生をやっつけてやるぞ。首を洗って待っておれ」
と勇ましく豪語しながら、ひとり打ち始めるのを見て、早苗は掃除の続きに駆けもどりました。

年に二度、郵便碁の仲間たちが、あちこちの地域から、気軽にわが家に集 まります。定年後気まま暮らしの水田さんは、川崎からいつも勇んでやって来るのです。

「おじさん、お昼は?」

「いや、すませたよ」

うそっぽいな。早く出てきたのだもの。食事処だって、11時前にはまだ
開いてないはず・・。
早苗が気をきかして草もちを焼くと、思った通り、水田さんは3つぺろりと平らげました。

やがて千葉や秋田や仙台からも10人ほど客が集まり、会は始まりました。

「ああ、残念無念、またしてもやられた」

水田さんのにぎやかな声が、茶の間にまで聞こえて来ます。

「あれだけ楽しめてうらやましいわね」と、母がつぶやきました。

夜10時、この次こそ、と意気込みながら、水田さんはそれでもいかにも 楽しかったという笑顔で、帰って行きました。1勝5敗だったのだとか。

半年後、次の碁会よりも先に、黒枠のハガキが届きました。水田さんはガンを抱えていたのでした。父はもとより、誰にも何も打ち明けずに・・。  彼にとっては、あの日が最後となった碁会だったのでした。 

あの時はまだお餅を3つも食べられるほどだったのに、ガンの進行ってそんなに速いのだ、と早苗には深い衝撃でした。            

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