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(私のエピソード集・1)蜜飴色の小部屋

教師となって初の夏休み、倉敷へ帰省する23歳の私に、母はお見合いさせる気だ!とTELで察知。あさってだって。よそいき服を忘れないで、だって・・。

「かってに決めないで。私は自分で決めたいの。あした帰るのやめた」と、きっぱり母に宣言して、電話を切った勢いで、かたわらにいたEの誘いに、ついうなずいてしまった。途中下車して、うちに一泊してよ、と誘われていたのだ。

 つきあい始めてはいても、まだ2ヶ月足らず、この人とは結婚しないと、決めかけていたのに・・。学者志望は私の願い通りだとしても、背は低くやせ型でひ弱そう・・。十代の頃夢見たレット・バトラーとは、あまりにも違いすぎた。

 倉敷の母は、今ごろ仲人や、見合い先に頭を下げつつ、怒り狂っているにちがいない。それに、Eは家族に私をどう紹介するのだろう。どちらも気がかりで、私の胸はチクチク刺されるようだった。

 富士宮駅から日盛りの商店街をすぎ、路地に入ると、Eは古びた三軒長屋の、真ん中の扉に向かった。私は見わたして、思わず立ちすくんだ。軒は低く屋根は傾き、壁板はささくれだち、剥げ落ちてもいる。これほどひどい、住まいとも見えないような、借家に住んでいたのか・・。

 うながされて、畳半枚ほどの土間に入ると、障子の左手に、狭いひと間のへやが奥まで見わたせた。土間の左手の縁側を、広い裁ち台と裁縫箱などが占めている。へやの左手奥の壁に、白いシーツを二枚つないだ、カーテンが引いてあった。へやに上がると、畳の床が今にも抜け落ちそうに揺らいだ。

「お暑い中をよくいらっしゃいました」と、和服をきちんと着た母親が、三つ指をついて迎えてくれた。私もあわてておじぎを返した。身動きしただけで、床がまた揺らいだ。

 母親はつと立つと、白いカーテンの陰から、夏座布団を持ち出して、私にすすめた。カーテンの内側に、きっちり収まった衣類と、ふとん類がちらと見えた。押し入れの戸もないのだ。

 母親が台所でお茶の用意をする間に、私はちりひとつない、屋内のすがしさに目を奪われた。縁側の外のさおに干したタオルは、しわひとつ無く、ぴんと張っている。足元の座布団は、レースのカバーが清潔で、ふっくらとしている。心地よい雰囲気に、私の胸のチクチクは、いつしかなごんでいた。

 Eの姉なる人が、その日は病院の通院日で留守だとか。ということは、このひと間に、4人で眠るのだろうか。それを察したように、「僕はこの上で寝るんだ。友だちが泊まる時は、いつもそうしてるよ」 と、Eは縁側の裁ち台を指差した。家の狭さも古さも、少しも恥じてはいない声だった。

「トイレは外のあそこ。真ん中がうちのだ」と教わって、私は使わせてもらうことにした。

 戸口から10メートルほど離れた所に、戸が三つ並んだ低い小屋があった。母屋に似つかわしく、屋根まで板張りの、小さな古びた外便所だ。ところが、戸を開けたとたん、私ははっとなって立ち尽した。

 床板も壁板も、手の届く天井板まで、濃いつやつやした蜜飴色に光っていたのだ。塗りではなく、それは長年たゆまず心を入れて、磨き続けてこそ出る色艶だった。私はためらいつつ、うやうやしく足を踏み入れた。柱の竹筒に白菊が一輪、片隅の空き箱には、茶色の紙がきちんと重ね入れてあった。  郷里の9部屋ある家の、乱雑な台所などのさまが浮かんで、思わずため息が出た。

「まずはお茶で、外での邪気を払うものですよ」 と言われ、母上に出されたお茶を頂きながら、詳しい話を伺った。満州から引揚げの途中に、彼の父親が入院。彼の姉(10)、妹(6)と彼(9)の三人だけで、帰国させた。その病院で病死した夫の遺骨を首に提げ、ひと月後に、やっと単身帰国できた。

 母上は病身のため、娘ふたりを親戚に預け、息子は5年生になるまで、大阪在の伯父に預け、その後引き取ってからは、和裁でなんとか大学から、大学院までやれたとのこと。我が家と同じ、大陸からの引揚げの苦労を、今なお引きずっていて、この住まいだったのだ。

 背筋を伸ばした母上には、私の母とは別種の、凛とした品格があった。そのたたずまいには、私の心の琴線を揺るがすものがあった。この人はたとえ洞穴に住んでも、住み心地よくと、労を惜しまず工夫し、それを喜びにも誇りにもする人なのだ。この人に教わりたい、まねしたいと強くそう思った。

 すると、Eのふだんの磊落(らいらく)さ、真面目さとやさしさ、私の話に打てば響く対応の背景が、別な光を帯びて見えた。度量の大きさとも言えようか、信頼感とも言えようか。

 9月の末頃に、癒着による、私の二度目の腹部手術入院などがあり、紆余曲折はあったけれど、ほどなくEとの結婚を決めた私に、母は激烈に反対した。私の勤め先の校長あてに、長い手紙を何通も送り、妨害してくれるよう頼みさえした。

 当時の〈家つき、カーつき、ババ抜き〉の結婚条件をそのまま願っていた母は、〈家なし、父なし、財産なし〉の上に〈病身の姑に、結核病みの小姑つき〉のEに、東京の大学まで行かせた、虚弱な娘をやれないと言うのだ。

 でも、私は動じなかった。10代から反発し続けた母への、それこそ最後の決意の反抗だった。あの蜜飴色の空間が、私の胸の奥深くまで染み入り、私を支えていた。母の望み通りにするよりも、自分の目で信じたものに従おう、と。

 嫁入り支度は、ひとりでするはめにはなったが、Eと選んだり手作りする、何もかもが楽しかった。

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 あれから50余年、義母と義姉の助けで、非常勤講師として、細々と学校勤めを続けつつ、育てた三人の子はそれぞれ家庭をもち、8人の孫を得た。

 義母は、当時、築20年だった我が家の桧の柱を、90台半ばまで磨き続けてくれた。そして私にたくさんのことを、不言実行とか、手取り足取りで、教えてくれた。客のもてなしの仕方。贈り物の仕方、浴衣や寝間着の縫い方、物の始末の仕方、数十年続けているぬか漬けの手入れ法など。

 でも、正直に言うと、感謝の思いで、ノートにメモして残してあるが、現実には、その万分の一も身につかず、とても継いでいるとは言えず、申し訳ない。あの小部屋を目にした時の、強い敬愛の思いは、充分に抱き続けてきたのに、義母のようにはできないままだ。何度も取り組んではみたが、縫い物も片づけも、体力なく挫折する。何よりも、読書や書き物を優先してしまう。私は私でしかない。こうして義母のことを書けることを幸いと思うしかないようだ。

 義母は104歳の時から、老人ホームと病院の世話になり、呆け知らずで過ごし、訪ねるたびに私の健康を案じてくれたが、2014年の暮れに、107歳で召された。義母とは口争いなどしたことはないし、私が勤めの他に、同人の会や児童文学の会などで、出かける時も、いつも支えてくれて、有難いことばかりだった。

★ 遠いあの時の直感と決心は、幸せへの最初の一歩だったのだ。

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