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 2章-(1) 出発の朝

開け放した戸口から、朝霧がゆるゆると土間の中へ、しのび入ってくる。 わらじの紐を、くいくい力をこめて結わえているかよの手のまわりにも、 細かい霧がまといついてくる。陽の昇らないうちは、まだひんやりと肌寒い4月の朝まだき、かよはとうちゃんに連れられて、家を発とうとしている。

あんちゃんがかよの胸に、小さな小さなつるを抱かせ、紐を首の後ろと、 腰の後ろで結んでくれた。ねんねこをその上からかけ、これも背中で紐を 結んだ。たっぷりと朝の重湯を飲んで、つるは気持ちよさそうに眠っている。ねんねこばんてんの中にもぐっているつるを、あんちゃんは黙って、 じっとのぞきこむ。

もう一人、黙った人が庭先にたたずんで、ほの暗い麦の田を見つめている。とうちゃんの背には、少し大きめの厚い風呂敷包み、手には、汐入川から とってきた、カニの入った網をさげている。中島の大旦那様に届ける土産 なのだ。

しんと静まり返った中で、カニのごそごそとあがく音だけが、耳につく。

かよは振り返り振り返り、庭先に出て行った。霧に包まれた低いわら屋根の、やさしい輪郭が、かよの胸に染み入ってくる。私の家。さよなら。  かあちゃん、さよなら。このままもう一度、駆け込めたらどんなにいいか。

この家は本家の離れ家だったのを、3女のちよと余平の結婚の折に、本家 のばあちゃんとしげ伯母が、結婚には不満足ながら、しぶしぶちよに分けてくれたものだった。

とうちゃんのわらじの音が、用水路の土橋の方から聞こえている。かよは、うしろ髪を押さえ込まれているように、足が進まない。

・・かあちゃんのお灯明はあげたし、お水神さまの石は、持ってきたし・・。

丸くなって頭を寄せ合って眠っている、すえととめ吉の姿が、消しても消しても浮かんでくる。

「つれえ事があったら、帰ってけぇ。気ぃつけてな」

あんちゃんが、ねんねこばんてんの背に手を置いて言った。

かよはこっくりして、あわてて激しく首を振った。辛い事があっても、つるのために辛抱する。そう言いたいのに、声に出したら、胸に詰まったものが、どっと目からあふれ出そうだ。

土橋のところまで、やっと来た。道ばたで、うつむいて川面を見ていたとうちゃんが、あんちゃんにぼそりと言った。

「やぶの開墾、初めてぇてくれ。昼前にゃ戻る」
「ああ」

とうちゃんは、背をかがめたまま、歩き始めた。かよも仕方なく、道へ一歩を踏み出した。兵児帯の間にはさんできた、丸い小石を、ぎゅっと握りしめる。長い間、石どうろうのほこらの中に飾ってあった石だ。

かあちゃんの代わりに水をあげ、願い事のたび、なでさすっていたその石が、かよにとって、かあちゃんの形見のお守りのように思える。

「余平さんか? かよちゃんものう・・」

足元の川もやの中から声がした。シカ婆が、ぬうっと身を起こした。向こう岸の石段の一番下で、大釜を洗っていたのだ。

「かよちゃんも可哀そうになぁ、今日のうちの法事のごっつおまで、のげえてからに。とうふに、五目寿司に、ぎょうさんこせえたんで。後で、すえちゃんらに、あげとかぁな」

シカ婆はあごを上げ、声をひそめるようにして、台所の方をしゃくった。嫁のツネさんの立ち働いているらしい音がしている。

「ありがとう、ばあちゃん」

夕べ、つるに最後の行水をつかわせてくれながら、明日は、亡くなったつれあいの13回忌だと話していた。親戚へのお愛想に芋飴を作ったのだとか、かよにもひと握りわけてくれた。かよの左袖の中には、その紙包みがしのばせてある。  

「帰るたんびに、この婆にも顔をみせねぇよ。気ぃつけてぇな」

また涙があふれそうで、かよはこくりと唾を飲みこむと、頭だけ下げた。

チ、チチチ。どこで鳴くのか,ひな鳥の目覚めの声が聞こえる。川ぞいの家々にも、ゆるやかな煙が上り始めた。朝飯前のひと仕事に出るくわ選びの音もしている。とうちゃんはその音にせきたてられるように、足を早める。

用水路ぞいの三の割地区を過ぎ、木野山神社をの石段の下を通りすぎ、小瀬戸に出る頃には、かよは息をはずませ、頬をほてらせていた。あたりの薄闇が,歩を進めるごとに、ひとひらずつめくれていくにつれ、かよの思いも晴れてきた。

おくさまは、どげん人じゃろう。うちは、向こうで何をするんじゃろう。

不安の入り交じった期待が、かよをわくわくさせる。知らない世界へ一歩 ずつ踏みこんで行っているのだ。 

  (画像 蘭紗理かざり 作)

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