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あの世とこの世をつなぐ小屋 1

秋田県にかほ市の盆小屋行事の記録 

畑や田んぼ、漁港などに建っている物置小屋や作業小屋の写真を撮り歩いては記事を書いています。
何かのお役に立ちそうにはありませんが、よろしければ、しばしお立ち寄りください。

秋田県にかほ市象潟町でお盆の間だけ建つ小屋があるというので2023年夏に訪ねました。
この地区では毎年8月12日に海岸に簡素な小屋を建て、その傍らで迎え火を焚き、先祖の霊を迎えます。そして8月15日に小屋を燃やし、それを送り火として先祖の霊を再び彼岸へと見送るというのです。
一年のうち、たった4日間だけこの世に存在する小屋。そんな幻想的な小屋があると知った以上は、訪れないわけにはいきません。

8月12日のお盆の入りの日、にかほ市象潟海水浴場は三陸沖に停滞する低気圧と台風七号の影響で分厚い雲が垂れ込めていました。時おり雨がぱらつくあいにくの天気です。朝8時過ぎ、海岸に隣接する下荒屋地区に住む男性たちが小屋を建てるためにスコップやノコギリ、ひもなどを手に三々五々集まりました。

砂地に梁を置いて、それを基準に柱を立てていく
壁となるよしずと稲わら

「雨が降り出す前に終えましょう」という町会長さんの掛け声で皆が作業に取り掛かりました。眠そうな目をした子どもたちも手伝いのために親の後に続きます。まずは砂地の上に梁となる木材で枠を作り、それに目安に柱の位置が決まると砂地を50センチほど掘って、前日に浜に用意したおいた木材を立てます。そして手際よく梁と筋交をロープで縛り固定していきます。釘も木ねじも使いません。あっという間に小屋の骨組みが出来上がりました。次によしずを巻きつけ、さらに束ねた稲わらを吊り掛けます。稲わらは前年秋に刈ったものを近隣の農家から貰い受け、保管しておいたものです。

慣れた手つきで組んでいく


祭壇となる台を作る
とてもシンプルな構造だ
よしずの上に稲わらをかける

作り始めて間もなく、本格的に大粒の雨が降り始めました。それでも人々は小屋作りの手を休めることはありません。小屋に祭壇の台が設けられると、待っていましたとばかりに傘をさした女性たちが、地元の商店から一式購入したホオズキやハマナスの実、砂糖菓子、そうめん、昆布などを、仕様書を見ながら飾り付けていきます。作業は小屋作りに参加している小学生のお母さんたち。年に一度のことなので、「前はどのように飾ったっけ?」と相談しながら進めています。

商店で購入した飾り付け
飾り付けの仕様書
激しい雨の中でも手を止めない
飾り付け完成!

キュウリとナスに割り箸を刺した精霊馬と精霊牛も並びました。香炉も置かれ、コーラの空き缶に仏花を挿し、これでご先祖様の霊を迎える準備が完了。線香を立てる香炉は、何かのガラス瓶の再利用で、後ほど海岸の砂を詰めるそうです。お盆の間には強風も吹けばこんな雨の降る日もあります。誰がいつ考えたのか、香炉灰の代わりに足元の砂を代用するのです。賽銭箱はどうやらワンカップのグラスでしょうか。
小屋は職人に依らない素人の手作り、祭壇は若いお母さんたちの迷いながらの飾り付け。ゆえに伝わってくる素朴な温かみが、そこにはありました。
手の空いた男性陣は小屋から少し離れた傍らに材木の端切れやよしずなどで高さ2メートルほどもありそうな円錐の塔を作っていきます。これが夕方に迎え火として焚かれる松明です。

作業を始めてから2時間余りで小屋が完成しました。高さ160cm、幅200cm、奥行170cm(寸法は全ておよそ、以下同)と、こじんまりとした大きさです。
「それではまた夕方に」と言って、みな雨の中を急ぎ足で帰っていきました。浜にはポツンと少し淋しげに小屋と松明が残されました。

盆小屋と迎え火用の松明


お盆の期間中象潟町のごく限られた地域で、町会ごとに海岸に小屋を建て、先祖の霊を迎える盆小屋行事がいつ頃始まったのかは定かではないようです。にかほ市教育委員会文化財保護課の職員にも尋ねましたが、記録が残っていないので分からないとの答えが返ってきました。

現在の盆小屋作りの過程を眺めただけでは思いもよりませんが、かつてこの行事は中学生以下の男子だけで行われていました。
下荒屋地区の会長さんは自身の子どもの頃の体験を語ってくれました。
それによると、盆小屋を建てる準備のため8月12日よりも前に、小中学生男子が「麦から、灯明、おもい次第(麦わらや灯明代をお気持ち次第で結構ですのでお分けください)」と歌いながら、リヤカーを引いて町内の家々をまわったそうです。農業を営む家からは野菜や麦わらをもらい受け(麦を作らなくなってからは稲わらになった)、そうでない家庭からはお供物やそれを購入するためのお金をいただきました(現在でも子どもたちが家々をまわって数百円ほどのお金をいただいているそうです)。
そして迎え盆の日には歳上の子が中心となって大人の手を一切借りずに柱と梁を組み、事前に編んでおいた稲わらで盆小屋を作りあげました。これで終わりではなく、そこからがメインイベントでした。15日までの4日間、男の子はこの小屋に寝泊まりして過ごしたのです。

1945年生まれ、78歳の別の男性が懐かしそうに語ってくれます。
「小屋を作るのに設計図なんてものはなかったですね。小学生の頃から歳上の子のやり方を見ていくから、1間幅とか2間幅とか自然と頭の中に入っていくのです。当時の子どもは道具も使えて当たり前でしたから」
そう言われてみれば、今日も盆小屋を建てるのに誰も図面を見ていませんでした。メジャーすら使っていません。
「わらだけでなく、柱だってちゃんとどこからか自分たちで貰ってきました。どの家が何をくれるか知ってるんですね。向こうだって、時期になると子どもが来ることを分かってますから。昔は今と違って、どこの農家の納屋にもわらが年中積んでありました。だから欲しい分だけ持っていけって、分けてくれました」
「小屋の中では砂の上にわらを敷いて、そこに布団を敷いてね。一度に10人ぐらいの子どもが寝泊まりしたものです。だから私らの頃は今の小屋よりもずっと大きかったですよ。今の小屋は小さくなりました」
「年ごろの男の子が集まると、誰が好きとか異性の話をしたのではないかって? 私たちの頃はそれよりも食べることの関心が高かったね。普段はお金なんか持てないけど、この時ばかりは家々をまわって少しずつだけどお金をもらっているから、今年は何を買おうかとリヤカーを引きながら考えるの。そして普段は絶対に食べられない桃などを買ってきてね、年下の子どもたちと分けあいながら食べるんだ。その喜び、おいしさと言ったら、もう・・・。まだじゃがいもを茹でて、それを食べていた時代だからね、私は。
でも昭和48年生まれの息子は、カップラーメンを買って盆小屋の中で食べてたね。それが当時の子どもたちにとっては贅沢な食べものだったんだ。時代を反映していて面白いよね(笑)。昭和52年生まれの次男は小屋に泊まったけど、それ以降の子どもは寝泊まりしなくなったんじゃないかな」。

49歳の男性も楽しそうに振り返ります。
「私は缶詰なんかを持ち込んで食べましたね。夜泊まって、朝になるとご飯を食べに家に帰って、また夜になると小屋に泊まりにくる。昼間は誰もいないから小屋を更衣室だと思って使う海水浴客もいたね(笑)。夜は花火戦争といって、隣の小屋同士でロケット花火や連発花火で打ち合いをするの。昔は小屋がもっとたくさんあったから、入り乱れてね。歳上の子がおとなしいと攻め込まれて、その小屋に火がついちゃったりして。そうすると火をつけた方が慌てちゃって、懸命に火を消しに走ってね。いやー、楽しかった。」

こうなってくると、話が止まるところを知りません。みなさんつい最近まで小屋に寝泊まりしていた少年のように瞳を輝かせて話してくれます。
75歳の男性です。
「その頃は中学生の親分みたいなのがいてね、上級生の方が親よりもずっと怖かったですよ。早く寝てしまうと体にイタズラされてしまうから、眠くてもとにかく最後まで寝ないように我慢して。でもあの時間は少年たちの、子どもから大人になるためのひとつ通過儀礼だったんでしょうね」。

今回何人かからお話を伺ったところ、50歳前後の男性は子どもだけの盆小屋行事を経験していました。逆算すると日本がバブル景気に差し掛かる1985年ごろまでは、男子だけの行事として続いていたようです。その後、中学校の部活動の活発化や生活の変化、少子化などで、男子が集まらなくなり、女子も加わるようになりました。現在では「子ども会主催」という名目は残っているものの、町会ごとに盆小屋保存会という組織内組織が作られ、大人が主導で行事をおこなっています。子どもはその様子を遠巻きに眺め、見よう見まねで手伝う形に落ち着きました。

もちろん小屋に泊まる子どもは、もう誰もいません。

 大雨でどこにも行くところがないので立ち寄った市立図書館の郷土史コーナーで、私が先ほど見た光景や伺った話を裏付ける記述を資料の中から見つけました。象潟町教育委員会が平成7年(1995年)度に発行した「象潟の文化 郷土史資料」に寄せられた本間祐典氏の「盆小屋」の一節です。

「私は、この十五年ほど盆小屋の行事にかかわってきたが、(それは*)この行事が子ども達だけで伝承することが困難になって来たことによるものであった。私がかかわる前は町内の大人たちがやいのやいの言わなくとも、この行事は男の子ども達で永々と続いて来たのである。上級生が下級生をリードして盆小屋はつくられ大人の出る幕はなかったのである。」(*は筆者注)
「これまで男の子の行事であったが、浜の町では今年からいよいよ女の子も一緒に子ども会、少年会の行事として位置づけ、そしてその父母の支援によって行うことにした。また町内にも盆小屋保存会の組織をつくり発足することになった」

「象潟の文化 郷土史資料」

一方で、こんな意外な記述もあります。

「実は私が子ども達とかかわった頃は祭壇の正面には何も置いていなかったのである。私は大工さんに位牌を作っていただき「先祖代々之諸精霊」と書いて灯明台、線香立、さいせん箱を置いて供物、花、さげ物をして祭壇をととのえたのであった。だから昔とはかなり様変わりしているものと思う」。

「象潟の文化 郷土史資料」

下荒屋のお母さんたちが四苦八苦していた飾り付けは1980年ごろから加わった装飾なのでした。

 1998年発行の象潟町(現 にかほ市象潟町。2005年10月に隣接2町と合併し、にかほ市に)の町史資料編にも盆小屋行事についての記述があります。全体像をつかめ、2023年現在と比較できるので一部抜粋します。

「•盆の迎え火・送り火
•実施日 8月12日〜15日
•実施場所 象潟海水浴場ほか
•実施団体/実施者 中橋(29人)、唐ヶ崎(9人)、妙見町(21人)、大町(26人)、上浜の町(21人)、下浜の町(12人)、おばこ町(26人)、上荒屋(21人)、下荒屋(26人)、浜山(14人)、大谷地(17人)の子ども会
•内容 海水浴場に小学生が主体となって稲ワラで町内単位の盆小屋を建てる。(中略)小屋は柱に稲ぐい、横木に竹を渡し、八畳間ほど。高さは二mほどで、天井にはシートをかぶせているが、昔は壁の部分と同様、手で編んだ「ノマ」を使った。(後略)
•現状および課題 子ども会の夏休み行事として組んであり、途絶えることはないと思う。が、子どもも少なくなっているせいか、規模が小さくなってきた。子どもたちの楽しみ会みたいな行事になってきている」

象潟町史資料編

 ここには当時小屋を建てていた11の町会名と子どもの数も載っています。計算すると、ひとつの町会あたり平均で20.1人の子どもがいたことになります。私が取材した2023年は4町会が3つ(そのうち2町会が共同で1つ)の小屋を建てました。この25年の間で3割弱へと減少したことが分かります。子どもの数は下荒屋で8人、浜の町丁内(上浜の町と下浜の町の合同参加)が5人、浜畑が7人、平均で5.0人です。25年前の町史は行事が「途絶えることはないと思う」と楽観的でしたが、そうとも限らない状況になっています。

さて、話を海岸の小屋に戻し、3つ建っているそれぞれの小屋の外観を観察してみます。
盆小屋の建て方や祭壇の装飾は町会ごとに若干違いますが、共通点は小屋を稲わらで囲うことと祭壇の後ろに人が出入りできる空間が確保されていることです。この空間にかつては男子が寝泊まりしていました。今は2人泊まれるかどうかのスペースですから、以前はどれほどの大きさだったのでしょう。今は掃除道具や松明に焚く端材などの物置となっています。下荒屋地区のほかには浜の町丁内地区と浜畑地区の小屋があります。

浜の町丁内の小屋は3つの中で唯一、町史資料編に書かれた手編みの「ノマ」で周囲を囲っています。高さ200cm、幅230cm、奥行230cm。祭壇には「先祖代々之諸精霊」と書かれた位牌、チーンと鳴らす鐘が置かれていました。線香立てはお菓子の缶。中にはやはり海岸の砂が詰めてあります。


浜の町丁内の盆小屋
祭壇の飾り付け。左隅の青い缶が線香立て
小屋の後ろ姿

浜畑地区の小屋は一番大きいサイズで、祭壇部分だけ前に迫り出す凝った形です。高さ220cm、幅270cm、奥行370cm。壁は合板を使い、少人数でも建てられるようによく考えられた設計になっています。ここの祭壇には叩いている人は見かけませんでしたが、木魚も置いてありました。仏花は造花の対。手作りの「さいせん箱」の手書きフォントが独特で目を引きます。


浜畑地区が準備した稲わら
ベニア合板を組み立てる
浜畑地区の盆小屋
素朴な祭壇

ちょっとした違いに過ぎないのですが、町会によってそれぞれ作り方、飾り方の様式があるのが分かります。祭壇に置く位牌や賽銭箱、燭台、線香の香炉としての瓶や缶は町会の倉庫などに保管し、毎年使い続けているそうです。

ところで、盆小屋を特徴づけている稲わらは近年入手が非常に困難になり、どこの町会も集めるのに苦労をしていました。現在のコンバインは稲を刈り取ると、内部で籾を脱穀するだけでなく、わらをその場で細かく裁断して田んぼに撒く機能が装備されています。コメ農家が減っている上に高齢化も進み、稲を天日干ししたり、盆小屋のためにわざわざ稲わらを選り分けてくれる農家さんがほとんどいなくなったのです。そのために15日に稲わらを送り火で燃やさず、翌年のために保管する町会もあります。またわらの代わりに古いよしずやゴザで代用している小屋も見られました。
先ほど引用した町史は子どもの減少を危惧していましたが、稲わらが入手困難で盆小屋行事が立ちいかなくなるとは、当時の書き手はよもや想像もしていなかったことでしょう。
部外者の私などは、ネット通販で稲わらを購入したり、近所のホームセンターでゴザを調達すればいいのではないかと浅はかにも考えてしまいます。それを幾人かに伝えると、皆が口を揃え強い調子で、そのような材料ではダメだと返してきました。地元の農家が作った稲わらをもらい受け、それで小屋を作るのが大切なのだというのです。今回代用したよしずは雪囲いとして使われていたものの中から傷んで不要になった分を譲り受けてきたのでした。ゴザは畳屋から張り替えした古ものをもらってきました。
先祖の霊を迎える盆小屋は、地元の人の手を介したものだけで建てなければならないという強い思いが、彼らの中にはあるのです。「地元の行事だから地元の物でまかなうのが普通」という下荒屋の町会長さんの言葉や、「省略できるところはあるけど、わらは譲れない」という浜の町丁内の男性の言葉から、それが先祖を迎えるに当たっての彼らの流儀なのだろうと私は理解しました。
先にも書いた通り、この行事はかつて小中学生男子が近隣の農家から稲わらを提供してもらってきた経緯があります。材料の由来にこだわるのは、そうした名残もあるのでしょう。しかし、その強い気持ちが盆小屋行事の継続を願い奮闘する彼ら自身を苦しめているようにも私には見えました。

夕暮れになり、近所の人が訪れる

迎え盆も夕方になり、浜辺には人々が徐々に集まってきました。それぞれの盆小屋のロウソクに火が灯り、祭壇で拝む人々の顔を赤く照らし出しました。火のついていない提灯を手にした家族が、祭壇のロウソクの炎を提灯のロウソクへと移していきます。提灯が風にあおられ、「あ、火が消えちゃった!」と、また小屋へ戻ってつけ直す親子連れの姿も見られました。午前中に顔見知りになった人に尋ねると、海から帰ってきたご先祖様の霊が迷わないよう、提灯の灯りで先導しながら一緒に家に帰るのだそうです。そして家の祭壇のロウソクに火を移すのです。マッチやライターのひと擦りで簡単にできることを敢えてやらない。先祖の霊が帰ってくる海辺で風に揺らぐ炎をいただいて、大事に家に持ち帰る。なんと慎ましやかな風習なのでしょう。

提灯を手に訪れた家族連れ

人の姿が夕闇に溶ける頃、小屋の傍らの松明に火が放たれました。お盆の迎え火です。

しばらくして、大人に促され、恥ずかしそうに子どもたちが「じーだ ばんばーだ この火のあかりで きとーね きとーね」と歌い出します。歌は「おじいさん、おばあさん、この灯りを頼りに来てください」という意味です。
全国的に非常に珍しいことだそうですが、盆小屋行事を行うこの地域一帯の住民は、魂は海から来て海へ帰ると今も信じているのです。

 象潟町出身で現在は東京都内に住む女性は、ご主人と小学生の子どもと一緒に帰省し、久しぶりに盆小屋行事に参加したと嬉しそうな笑顔を見せていました。私がよその人間で撮影のために訪れたと知ると、「私も子どもの頃は行事に参加して、毎年歌いました」と言って、誰に聞かせるふうでもなく歌を自然と口ずさみました。彼女の中には幼い頃に覚えたこの歌が深いところまで染み込んでいて、きっといくつになっても忘れることはないのでしょう。

迎え火を見つめる少年
迎え火が海から帰ってくる先祖の霊を迎える。右奥にも2地区の迎え火が見える

夕闇から絶えず聞こえる波音と炎のはぜる音、子どもたちの歌声や笑い声。私はまるであの世とこの世が溶けてひとつになったかのような不思議な錯覚にとらわれました。(2に続く)

  


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