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私の爪、あなたのこと

 過去の恋人に手紙を書いた。
 その人とはずいぶん前に別れてしまったが、今でも忘れられないくらい好きで、その人から貰ったイヤリングは机の一番上の引き出しにしまってあるし、その人が好んで読んでいた作家の本はすべて本棚に収まっている。
 住所が変わっていなければ、今頃届いている筈だ。
 山茶花の垣根がひろがった一戸建てに住んでいて、昼間はセールスマンの仕事をしている。その家から見える芝生はあまり手入れが行き届いておらず、茫茫に伸びきった芝生やたわわに穂をつけたネコジャラシが無造作に生えていた。
 拝啓、お元気ですか。こちらはうまくやっております。
 こうやって始まった手紙は6枚の超大作となり、後半2ページの文字は乱れる始末。それでもなんとか読める形にして、封筒の封をぴしっとのり付けし、住所も一文字も省略せず丁寧に書いた。今まで溜め込んできた想い、うらみつらみ、愛の詩など。
 死ぬまで貴方のことは忘れないでしょう。 敬具

 手紙を出してから1週間が経った。
 その間に私の爪が1枚とれた。左手の人差し指の爪が、ペットボトルのラベルについたシールを剥がすようにむけた。ねぎを刻んでいた時に、ふいに当たった包丁であっさりとあっけなく。痛みなどはない。ただ、とめどなく血が溢れて、包帯を変えても変えても止まることはなかった。仕方がないので紙コップに指を入れておいたら、1時間ほどでカップ1杯分の血液が溜まった。深くて青い赤ワインの色。
 手紙の返事は来ない。

 2通目を出したのは秋のことだった。
 どうしたのでしょうか、返事が来ません。から始まった手紙は、4枚目手前で挫折し、初めの数行で手早く敬具と書いた。まるで逃げるかのごとく。
 それから一週間後、また爪がとれた。今度は右手の薬指で、虫さされの腫れを掻いていたら剥がれた。前回で学んだので、すぐ紙コップに指を入れ、しばらく放っておいた。溜まった血を流しに捨てる際、何故か罪悪感が胸を満たした。悪いものを捨てているみたい、まるで初潮を迎えた少女がナプキンを汚物入れに捨てるような。

 3通目は冬に入る前に書いた。1週間したらまた爪がとれたので、これからは記録として剥がれた爪をとっておくことにした。左手の小指の爪。

 6通目は春も半ばに差し掛かった頃書いた。5通目は冬の終わりに書いたが、未だに返事は来ない。もう書くこともないので、ほとんど日記のようになっていた。
 最近仕事をやめて、その辺をぶらぶらしています。昔ほど当たりは強くないと思いますが、それでも気が急いてしまって復職もうまくいっておりません。行き当たりばったりで入った事務職も、社長のパワハラがひどくてやめてしまいました。貴方はどうですか。まだセールスをしているのですか。貴方は物を売るのが上手でしたね。言葉巧みというか、買わせようとする気概が他の人の倍あったような気がします。私はその血気盛んなところが好きでした。ではまた。敬具

 8通目は季節の変わり目で風邪を引いてしまったので、布団に潜りながら書いた。ようやく決まった仕事で四苦八苦している内に夏が過ぎて、また秋が巡ってきた。手紙を書いて1年を過ごしてしまった。
 爪は6枚になり、とれる度に小さなピルケースに仕舞った。アンティーク調の花柄のピルケース。祖母の家にあった物を勝手に拝借した。古い爪から順に黄ばんでいって、一番最初に入れた爪(3通目の時にとれた爪)は水虫になった老人の爪のように固く小さく縮んでしまった。
 不思議なのは、毎回紙コップに並々血が溜まるのに、貧血にならないのだ。風邪で具合が悪い時に血が流れ出ても、目眩がして倒れるということはない。ただ、血の色の血をずっと眺めているだけというのは本当に気が滅入ってしまう。私には何かを殺すということはできないな。

 手紙を書き始めてから2度目の冬。とうとう両手の爪がなくなってしまった。爪のあった場所は皮膚で綺麗に塞がれており、ぱっと見ただけだとそんなに違和感はない。ツメナシカワウソの手のひらのようだ。指先は丸いのに妙に骨張っている、茶色い小さな手。

 それから半年後、風の噂で恋人が死んだことを知った。
 交通事故で即死。あっけないものだ。

 返事はまだ来ない。

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