識字障害だけど小説書いてます
この前、カウンセラーに識字障害じゃない? と言われた。
識字障害とはディスレクシアの別名で、字を読み書きすることに困難があるという障害だ。日本では難読症、読字障害、読み書き困難……とさまざまな名称で呼ばれている。その症例は、小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」「っ」や伸ばし棒の「ー」が読めない、文字がにじんだりゆがんだりして読めない、など人によってめいめいに違う。
私は、2文字以上のカタカナをうまく認識できない。
まず、カタカナの言葉をうまく書き写せない。提示されたカタカナを単語としてうまく受け取れないので、小文字や濁点、半濁点などの位置を間違えてしまう。読むことも困難で、10文字近くのカタカナは基本的に初見では読めない。覚えるのも本当に苦手で、覚えたとしても間違えて覚えてしまう、なんとかインプットしてもあっという間に忘れてしまう、など、カタカナの単語を完璧に覚えるには膨大な時間を使わなければならない。
私は小説を書いている。
昔から本を読むのが好きで、小学生の頃から作家になりたいという夢を抱いてきた。そんな人生の中で突如現れた(厳密に言えば遥か昔から常にあったモノなのだが)識字障害という壁。作家を志す者として致命的ともいえる欠点だ。
でもその実、そんなに気にしていない。
だって、カタカナを使わずとも文章は書ける。例えばエモーショナルは「情緒的」「趣がある」という言い回しに変換することができる。カタカナの単語を覚えずとも、その代替の日本語を使えばある程度それっぽいことが書けるのだ。
元々本を読むので、ひらがなや漢字の言葉は人並みの知識としてあるし、言い回しのストックもそこそこある。確かに他の作家よりカタカナの語彙は圧倒的に乏しいが、今の時代パソコンやスマホを触れば一発で正してくれるので、案外困らない。
日常生活でもすごく困った、という場面に当たったことはない。学生時代は世界史などのテストで手こずったりしたが、それ以外でその単語を使うことはほとんどなかったし、日常会話に難しいカタカナが出てきても、意味やニュアンスはなんとなく分かるのでそれとは別の言い回しで対応できる。
振り返ってみると、識字障害でとても苦労したという記憶は薄い。なぜか? まず第一にそれが当たり前だと思って生きてきた。誰しも得手不得手はある。それがカタカナだっただけで、ちょっと工夫すれば思っている程生き辛くはない。
第二に、私はカタカナが好きだ。ここまでカタカナが苦手と書いておいて好きだと言ってのけるのは本末転倒な気もするが、カタカナの単語は純粋にカッコいいと思う。例えば最近好きな単語でいうと「キュートアグレッション」なんかがある(可愛いものへの攻撃的な衝動という意味で、私は後半の「アグレッション」がどうにも覚えられない。好きなので何度も検索をかけているのだが、どうしても「アディクション」と間違えてしまう)。
そんな風なので、識字障害かもしれないと聞いた時とても驚いてしまった。障害という文字がつくくらい、深刻な話なんだ、と。もしかしたら、世の中の「障害」がつく人たちも、案外そんな感じなのかもしれない。周りから「障害なんだね。大変でしょう?」と言われても、本人からしたら「何が?」。もちろん、障害によって深刻さの度合いが違ってくるのであまり大きな声では言えないのだが(私も識字障害の他に別の障害を抱えていて、そっちは笑えないことがたくさんある。だから全員が全員気にしていない訳ではないことも分かる)、でもその中にも障害を障害として捉えずに生きている人がいる。私は、そういう人いいな、と思う。いいな、カッコいいな、と。
私は識字障害を抱えながら小説を書いている。
実は、大した問題ではない。
※注 この記事の中にいくつかカタカナ単語が出てきますが、これは私がなんとか覚えた数少ない単語です。日常生活で頻繁に出てくるカタカナは辛うじて覚えてます。ディスレクシアはまだまだ馴染みのない単語なので、まったく覚えられてません。ディスクレシア? ディスレクシア? ポケモンみたいな単語ですよね。
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