見出し画像

平成の終わりに恋人ができた話

 平成の終わりに、恋人ができた。
 

 Facebookに「もし良かったらやりとりしませんか?」というコメントが来ていた。所謂出会い厨だ。
 普段の私だったらスルーしていた。ネットでの出会いなんて言語道断、会った事もない人間と文面だけでやりとりするなんて…しかし、その時の私は妙に強気だった。いやただ無気力だっただけかもしれない。「いいですよ」、軽い気持ちでLINEを教えた。
 しばらくその人とぼんやりとしたやりとりを続けていた。趣味の話、近況、日々のetc……。
 ある日その人に「会いませんか?」と言われた。正直「来た」と思った。この手のやりとりはネット上で腐るほど見ている。出会い厨たる所以。私は拒否した。毎日なにかしらコンタクトはとっているが、それだけではどんな人か分からない。やはり恐怖心が上回る。
 「すみません」……そう言うとその人は「いいですよ」とあっさり引き下がった。安堵感と拍子抜け感。そしてほんの少しの好感。案外悪い人ではないのかもしれない、と緩い脳味噌が安易に思った。それからもぼんやりとしたやりとりが続いた。
 会ってみよう、と思ったのはおそらく嫌気が差していたからだと思う。代わり映えのしない日々に鬱屈とした気持ち。もぐらが間違えて土の中から出てきてしまうのと同じだった。久しぶりに太陽が見たい、見えないくせにそんな気まぐれを起こして。
 「会ってみませんか?」意を決してLINEを送った。1時間、2時間、半日、1日、2日……返信が返ってこない。既読すらつかない。一体どうしたのだろう。今までだったらなにかしらアクションがあった筈なのに。
 見切られた。そう考えると、ふいに寂しくなった。あちらから声をかけてきておいてこの仕打ちはないだろう。頭では理解しているのに、それでもうす青い寂しさがあった。そこでようやく気づく。私は少しだけ恋をしていたのだ。
 今年に入って3回目だ。振って、振って、最後には振られてしまった。寂しい。私はその感情を真正面から受け止めた。恋人がいなくて寂しい。寄り添える人間がいなくて寂しい。昔はこんなに寂しがりではなかったのに。そう思い返してみても、心は恋人を欲していた。
 そこからの行動は早かった。マッチングアプリをスマホに導入し、プロフィールを作成する。今まで嫌厭していたネットでの恋愛に自ら飛び込んでいくなんて。どこかで別の自分があざ笑う。しかし私はもうなりふり構っていられなかった。まとわりついて離れない白い泥のような寂しさ。寂しさが行動力になるなんて、今まで知らなかった。
 相手はあっさり見つかった。焦っている私はすぐに「会いませんか?」と提案した。ミイラ取りがミイラになる。出会い厨が出会い厨になる。馬鹿馬鹿しいけど、実際そうなったのだから仕方ない。
 会った人は、とても優しそうな顔をしていた。
 そして平成が終わる頃に恋人ができていた。
 人生、何が行動力に変わるか分からない。恋人はとても優しくて、でもとても忙しそうだ。LINEの返信は遅いけど、それでも少し前に感じていた寂しさはなくなった。ような気がする。
 このまま令和を駆け抜けられればいいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?