草木の如く 5

 先生とはもう三年の付き合いになる。

 初めて会ったのは美術部の展覧会の時。高校で幽霊部員をしていた私はほとんど絵を描いたことがなかった。卒業する前に一枚くらい描き上げろ、そう言われて渋々描いた絵が県主催の展覧会で飾られることになった。確か女の絵だったと思う。美術部の顧問がモデルで、それを誰にも打ち明けずに私は高校を卒業した。その絵を賞賛したのが先生だった。わざわざ高校に電話してきて、うちの大学に来なさいと受話器越しに言われた。おせっかい焼きなのだ、先生は。当時の私は言われるがままに受験をし、美術大学に入った。でもそれは一年と持たなかった。どうやら美術はただひたすら絵を描いているだけじゃダメらしい。

 先生は私が大学を中退してからもずっと気にかけてくれている。ありがたいことだ、と思う。でも放っといてほしい、とも思う。大学時代、よく他のクラスメイトにいびられた。贔屓にされてるだのなんだとのイチャモンを付けられ、絵の具や筆を隠された。先生はある程度名の知れた人だった。噂じゃ認められたくて自らの身体を捧げる生徒もいるという。それくらい先生は有名で人気者なのだ。私に構っている暇なんてない。

 パレットに新しい絵の具を落とす。コバルトブルー、ロイヤルブルー、インジゴ、アイポリブラック、その他エトセトラ。パレットを洗わずに使い続ける人もいるが、私は区切りのいい所で全て洗い流してしまう。そうすれば、再開した時にいつも新鮮な気持ちで挑める。ゲイジュツは常に新しい風を吹き込まなければならない。誰の受け売りでもない、私の持論だ。

 だから私の絵にはたくさんの色が使われている。毎回新しく混ぜて使うから、同じ絵の具同士を同じように混ぜたって前使っていた色には絶対にならない。色は絵の具や水の量で目まぐるしく変わっていく。色は感情のように繊細で、それでいて時間のように大胆だ。私はそんな色たちのことがなによりも好きだった。変化していく色を筆に乗せ、色のついてないキャンパスに引く。時ににじみ、時にかすれ、パレットの上では出さなかった別の顔を私に見せてくれる。乾かすとまた違った表情になる。まるで赤ん坊のように。色の集合体である絵はある意味、私たちと同じ生き物に近い気がする。だって動物や人間は無限の細胞の寄せ集まりなのだから。

 私は小指の先ほどのコバルトブルーと砂粒ほどのホワイトを混ぜ、水で薄めたものをキャンパスに下ろした。キャンパスには既に夜空の絵が描かれていたが、その上から押し潰すように色を乗せていく。先生に言われたことを頭の片隅で思い出す。モチーフが大事だと言っていたから、とりあえず星を足していこう。筆を洗い、その先にホワイトを付ける。そして一つずつ丁寧に星を描いていった。描く、というより、置く、と表現した方がいいのかもしれない。星はどのように輝いていただろう。思い出すために私は目を閉じた。まぶたの裏に無数の星が迫ってくる。

 ちか、ちか、と星は輝き瞬いて光を帯びる。まぶたの裏の小宇宙はぐんぐんと先に進んでいく。ああ、あれがオリオンのペテルギウス、リゲル、その奥が牡牛のアルデバレン、御者のカペラ……美しく燃える星々の中を私は泳ぐようにくぐっていった。そこに下り立つもう一人の自分。私は私を見つめる。私がどうするかを見定めている。その瞳は私のものではない。私を通して神が見ているのだ。私の集合体の一部でありながら、私を一番理解している部分。神は囁かれた。身体の欠片を使いなさい。そのお告げに、私は目を見開いた。

 カッターナイフが腕を滑る。溢れ出る赤。おかしい。私は宇宙の一部なのだから、同じ色をしていなければならない筈なのに。もう一度深く入れていく。赤。もう一度。赤、赤、赤。赤が溢れていく。仕方なしにその赤で筆を濡らした。赤を馴染みやすいように水入れに筆をつける。透明に油膜のように赤が張りつめていく。私はキャンパスの上に筆を置いた。おかしい、宇宙の色にならない。

 そこで私の視界は暗転した。

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