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「お母さん」になりたくない

子供はかわいいけど自分自身の子供はいらない、と長いあいだ宣言してきた。

電車の中やレストラン、信号待ちで子供を見かける。かわいいなあと思う。
ちいさな子供と遊ぶ機会がある。かわいいなあと思う。
友達がインスタに子供の動画をあげる。かわいいなあと思う。
ツイッターで育児漫画をみる。かわいいなあと思う。

しかし、かわいいと思うのと、欲しいと思うのは、別である。

子供はただかわいいだけではない、という至極真っ当な意見ともまた違う、子を持ちたくない理由が、確かに存在する。

子を持つということは、親になるということなのである。
そして、私は親になりたくないのだ。親になるという事象に恐怖さえ覚える。

その理由については、よく考えてもわからない。
親になるとは責任が発生するということだから、というのともなんだか違う。
責任なんて、一人で生きてたって十分すぎるほどある。
(だからこの国では個人賠償責任保険ほぼ全員加入なんだね。自動車保険も賠償責任保険は強制加入だし。)
まあヨワヨワで自分で自分の足の裏を掻くことさえできない生き物と同居してケアするとなると、そりゃ一人でいるより責任は増えるだろうし、私は責任という重すぎる概念にアレルギーがあり単語を見るだけで泣きそうに心臓がキュッとなるタイプの人間なので、もちろん責任は少ないに越したことはないのだが、なんというか、責任だけではなく、別の何か、色の淡さや香り、柔らかい空気、それでいていつでも立ち上がることが可能に映るあの眼差しなど、親になった生物に独特の、うまく描写のできない「あれら」を私自身が備えるということに、筆舌に尽くし難い拒絶反応を示す。

そして、それらを強く備えているのは、たいていがメスのように思える。

母親という存在が悉く苦手だ。
自分の母親も、友達の母親も、見知らぬ隣人も、母になった友達も、なんならほのぼの生きてるように見えるガチョウも、自分の子を舌でケアする母猫も、ネグレクトしている羊も、子を持つメスというほぼ全ての生物が気持ち悪く思える。
母親という立場にあるお友達が気を悪くされたら申し訳ないのだが、なんというか、一部例外はあるけれど、母親という存在を目にすると、得体の知れないものを見てしまった、という気分になる。
彼女らに非があるわけではないし、それらを備えていること自体、糾弾されるべきでももちろんない。
だがどうしても、あのえも言われぬ独特のあたたかさ、安定感、同様の不安定さ、などを私は受け入れることができない。
ましてや自分がそれらを纏って生きるなんて、気持ち悪くて絶対に絶対にできない。したくない。
想像しただけで、その想像に使った脳の部分を洗いたくなる。

ああ、だから私は親になりたくないし、特に「母親」になりたくないのだ。


今日は婦人科に行った。

生理前の気分の浮き沈みが浮き沈みというレベルではないことをようやく自分で認め、というか、そう認める自分を自意識過剰だと押さえつけずに済むようになったので、これはもうPMDDだと思う、と予約段階で告げ、現在飲んでいるピル以外に別の解決策はないかと相談した。

まずは休薬期間なしにピルを飲み続けることを勧められたので、まあ試すけどミレーナにも興味があるよと答えると、子を望んでいないかどうかの質問がなされた。
望むなら今がベストだよ、30以降は徐々に妊娠しづらくなるから、と。
まあ婦人科だしリスクを伝えるのが彼らの仕事なので、当たり前の指摘である。

そこでなぜか気がついたのだ、あ、ミレーナについて相談できるなんて、私もう子供を持たなくてはという強迫観念から解放されたんだ、って。

それから、先週くらいにパートナーとなされた会話を思い出し、記念に残しておこうか、とマックを開き仕事を放置しこの文章を書いたというわけである。


自然な日本語力が落ちている。自然な日本語ってどんなんだっけ、となる。
リハビリにいいおすすめの小説を教えてください。

ぐんないヨーロッパ

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