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【母の死】

2019年母の癌が発覚。
私が離婚して地元に戻り、一年が経つ頃の事でした。最初は血尿から始まり、私は近くの泌尿器科クリニックを受診するよう勧めました。
膀胱炎どころか腎盂腎炎をおこしていた母。
寛解しても繰り返す炎症に医師が何かおかしいと気が付き、総合病院を紹介されました。
総合病院でPETCTを撮り、原因は膀胱でも腎臓でもなく癌の可能性があることが発覚。すぐに大学病院へ転院することになりました。

ところが、大学病院で精密検査をしてみても、癌の姿が見えないのです。
しかし、その癌と思われるものは既に膀胱を侵襲して腐らせていることだけは事実。
検査結果から考えられる「大腸癌」に対する抗がん剤を開始することになりました。

しかし、体質なのか抗癌剤が全く効かない。消化器外科の医師も頭を抱えていました。

そんな中でも、根気強く抗がん剤を続けてはいたものの、副作用ばかりが強く出て、3度の意識消失。1度は転倒により骨折…
救急車には大変お世話になりました。

手術
「癌がどこにあるのかはっきりしない。しかし確実に大きくなっている。開腹手術をしたい。」
副作用ばかりでてしまっている母の治療方針を決める話し合いに、私も同席しました。

本来であればある程度、抗癌剤で縮小させたかった癌だが、縮小どころか姿もよくわからない。まだ50代だった母の癌の進行は遅くはなく、一か八かの手術をすることに決めました。

泌尿器、婦人科、消化器外科、3科での13時間の大手術。
父は夜中まで、ICUに帰室する母を待った。

医師からの説明は「取り切れるだけ取りきったが、残っている可能性がある。そして思ったよりも進行していた」と。
検査結果がでるまで、もしかしたら取り切れているかもしれない希望も少しはあった。検査してみたら癌じゃなかったなんてオチないかなぁなんて。

しかし、結果は癌だった。
医師がが予想した通り、癌は残存していた。

そこからは「末期癌」として腫瘍内科へ転科。
主治医ははっきりと言った「治ることはない、だけどまだ抗癌剤で治療する手段が残っている」
そこで言われた余命は半年だった。

ポカンとしている家族。
私は脱力のような血の気の引くような、頭の奥がツーンとなる感覚だったのを覚えている。

待合室に戻り「先生の話…わかった?死に向けた準備をする時期ってことだからね」と、私ははっきりと伝えた。

母は「そっかそうだね、日記とか処分しなきゃね」なんて笑っている。
父と弟は何も話さなかった。

【術後の生活】

子宮、膀胱は全摘、腸も大部分を切除。
術後から尿管皮膚ろうを抱えた生活になった母。(障害者手帳を取得)

人工肛門の増設にいたらなかったこと、腎臓は残せたことが救いだなと思いました。
しかし、ウロストミー2つ…父に介護ができるのか不安で、術後すぐは介護経験のある親戚の家で面倒を見てもらうことに。
(私も付きっきりにはなれないため、回復までの数カ月をお願いすることに)
その後、母は歩けるほどに回復。

余命半年…母のやりたい事を叶えよう。
そうして温泉旅行を計画した矢先、コロナの流行。
弱った母がコロナに感染すれば確実に耐えられない。私は温泉旅行を中止し、様子を見ることに。
その間も通院で抗癌剤治療は続け、何度か尿路感染や敗血症をおこしながらも闘った母。
外出は控えつつ、できるだけ孫や親しい人と過ごしていました。

父親はすっかりパウチ交換にも慣れ、車椅子の操作も上手くなり、溜まりに溜まった有給で、母の通院の付き添いを行っていました。
正直、父がここまで出来るとは思わず私は密かに夫婦の愛の力に感動。

【治療終了】

抗癌剤を続けていたものの、いよいよ副作用が命に関わるほど強くなっていきました。
白血球がゼロに近づき、回復しない。
「このままでは抗癌剤で命を落としてしまう」
医師は治療の終了を私達に告げた。

私はいよいよ覚悟しました。余命宣告されてから覚悟はしていたものの、ここからがいよいよ最期の時間。
コロナ禍だろうが母の望みを叶えるため、行きたいと言っていた温泉に日帰り旅行を決行。
ストマでも受け入れてくれた旅館に感謝です。

父親にも本当に自宅で看るのか、寝たきりになったらどうするかなどの話を詰めました。
具体的な想像はできていないけれど、家で見れる限りは見たい…と話す父。ならば私も全力を尽くそうと覚悟を決めました。

そうは言っても、在宅で看れなくなる可能性も含めて、緩和ケア病棟の申し込みはしました。(予約待ちで、期限付きの緩和ケア病棟はあまり現実的ではありませんでしたが、何かあったときのために)

治療終了の時点で、訪問診療医に担当が変わりました。その時のデータはかなり悪かったのだと思います。看護師と医師の訪問は合わせて週4日。
医師からは、余命1ヶ月〜2ヶ月だと言われました。

【介護休暇】

医師の予想に反して、思いのほか元気に過ごしていた母でしたが、動けなくなる日は突然やってきました。
仕事終わりにスマホを確認すると父からのラインと着信。「お母さん苦しそうだ」

慌てて駆けつけてみると、せん妄状態。急いで看護師を呼びました。
その日は坐薬でなんとか落ち着いたものの、看護師からは「あまり長くはない、側にいるなら今です」と。

私はその日から介護休暇を取得し、父親不在の時間に毎日通うことにした。

しかしあまりに突然で、介護ベッドも何もない状態。聞くとお風呂も1週間くらい入っていない。
私は急いで福祉用具や訪問入浴の手続きを行いました。
(仕事で付き合いのあるケアマネさんに全てお願いして2週間ほどで整いました)

介護用ベッドを搬入して、介護用品をあれこれ買い、寝室で暮らせるように整え…
この時はかなり、施設経験が役に立ちました。

母の食べたいものは、五目焼きそばだったり、酢豚だったり、結構こってり。昔からそうだったなぁと思い返す。
しかし、一口くらいしか食べられないので、可愛い器に少しだけ盛り付けて、一緒に食事をしました。

色んなくだらない話もしましたが、一緒に遺影も選びました。そこまで話せていても、孫の入学式は見る気満々。時々、まだ受容できてないのかなぁと不安になることもありました。
でもその深刻にならない性格が、最期まで元気でいられた要因の一つなのかもしれません。

【最期の日】

朝起きると「今日はお腹いたい」とラインが来ていました。
「薬のんだ?早めに行くね」私は食べたいと言っていたものを持参して向かった。
「食欲ないや。薬のんだけど痛いなぁ」
お腹が張っているので湯たんぽで温めるなどしてみるが、落ち着かない。
トイレに座るというのでポータブルに介助すると、膝が抜けて立てなくなってしまった。
二人で笑いながら「ちょっと〜!立てない!」「重いんだけど〜!」と大騒ぎ。

なんとかベッドに戻ったものの、そこからどんどん痛みが増して、せん妄症状がでてきた。
私は急いで訪問看護師へ連絡。
到着時は会話ができる程度に快復はしていたが、既にバイタルサインは測れず、看護師も何故話せているのか不思議だと話すほどでした。

そうこうしているうちに、容態が悪化し、再びせん妄状態に。痛みも強く訴え、今まで使わなかった点滴(おそらく麻薬)を使用。中身はなんですかとは聞けなかった。知ってしまえば、その現実に耐えられなかったかもしれない。この感覚は医療者独特のものなのかもしれません。

やっと落ち着いて看護師に一旦帰ってもらいましたが、看護師からはおそらく今夜あたりだとお話されました。もし息をひきとっても慌てず、家族とお別れが済んでから呼んでくださいとの指示だった。
わかりました。と、私は父と弟にも早めに帰宅するように連絡をいれた。

点滴が効いて、すやすや眠る母、しかし呼吸が深くなってきた。あっという間に下顎呼吸に…
慌てて祖母を呼び「お父さん達帰るまで頑張れ」と声をかけました。
しかし、下顎呼吸がはじまって10分ほどで、呼吸停止、思考も感情も追いつかない。でも父たちになんとか連絡をして、到着を待ちました。

父たちが来るまでに、祖母と顔や体勢を整えました。静かに眠るように。
父と弟は間に合わなくてよかったのかなと思います。最期の姿、父と弟には見せたくなかったのかもしれないと。
よくドラマで耳にしますが「こんな姿見ていられない」下顎呼吸がはじまったときは、そんな感情でした。
もう苦しくないこともわかっていても、見た目にはかなり残酷です。家族としてその姿を目の当たりにすることの辛さを、身を持って知りました。

【娘として看護師として】

私は新卒で消化器外科病棟配属となり、癌患者さんに関わってきました。外来では化学療法に携わりました。そして施設では「その人らしい最期」について学び、看取りケアを行ってきました。
きっとその経験は、母を看取るためだったのかなと思うことがあります。
そしてこれからもきっと、私がこの経験をした事には意味があり、それを返していく人生になるのではないかと。

母の死を通して、私は父と母の愛の深さを知りました。そして弟は人としてとても成長しました。(2022年現在、素敵な奥さんと結婚しました)
私は母の死をきっかけに再び地元を離れることに。

まるで見えない力で背中を押されているような気分です。
人の死は忌み嫌われるものでもなければ、悲しいだけのものでもない。
終末期に関わる者として、私はこのメッセージを伝えていきたい。
そして「その人らしい最高の最期」へのお手伝いをしていきたいと、そう思っています。

長々とご拝読いただき、ありがとうございました。

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