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ウェービング・ガール

「あんた、空を飛ぶってこと、なめるんじゃないよ」
そう俺に言った目の前の女は、ウェーブがかった髪を一つに束ね、ビールの大ジョッキ片手に煙草をくゆらせていた。
思ったことを何でも直球に投げつけてくるこの中年の女は、飛行機の整備にかけては超一級、でかい身体からは想像もできないくらい繊細に慎重にやってのける。放つ言葉はどれも物事の核をついていることを知っていたので、俺は黙っていた。
彼女の吸う煙草の煙をじっと見つめていた。
有害だとわかっているだろうに、どうしてそんなものが吸えるのか、と思う。この基地で煙草を吸わないのは俺だけなので、この考えこそ異端なのだろうが。
不意に外の空気が流れ込んできて、揺れる。若い女がベッドの上でやるように。
煙越しに見た彼女はにっと笑って灰皿を引き寄せた。まだ長いままのそれをゴミにした途端、最後に女の顔が見える、若い、煙の、女、換気扇に吸い込まれて、消える、空に、
「もっとよく考えな」
生身の、確かにそこにいる彼女の声に引き戻される。煙に、顔が見えるはずはない。墜ちた奴を除いて。一つ一つ覚えていられるはずもないが、唯一忘れられないのは初めて墜とした飛行機だった。女が乗っていた。だから何だというわけでもないけれど。現に今、俺は今も飛行機に乗っているし、ここにいる。
ただあの女は、学校の同期だった。
「はい」
「じゃああたしは先に戻るからね、はやく来るんだよ」
「ありがとうございます」
ジョッキを残して彼女が出て行く。俺も、行かなければ。
テーブルに肘ついて最後にもう一度、同期の女に心を落とす。時間の無駄だとわかっていても。
成績は良かった。学校の成績と社会の成績はまったく別のもの、生きる上で重要な成績が俺の方が上だったというだけ。せめて、俺と同じ配属先であればもう少し長生きできただろうに。
まずくなったビールと同期への思いをテーブルに残して、外に出た。慈悲のない寒気に身を震わせ、一度部屋に戻ってジャンパーを取って来なければ、と思う。煙の女も今この場にいるだろう。もしかしたら、俺の隣で微笑んでいるかもしれない。
穴の開いたエンジンの様子を見に、そして怒られるために、整備士の元へ向かう。このままじゃ死ぬよ。死んだって構いやしない。死ぬために飛んでいるのだから。
彼女たちは、空の世界で逞しく、強く生きる女だった。

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