例の痛ましい事件に関する、とあるツイートから考えたこと

1.


以下、夕食前にTwitterを眺めていてたまたま見つけた落合陽一氏のツイートです。

トゲトゲしい文面になっていますが、落合氏が伝えたいことはおそらく「SNSなどで自分の発信した言葉が最終的に誰かに何かしらの影響を与えているかもしれないことを常に自覚する必要がある」ということだと解釈しています。
(あいにく私はよく回ってキレる脳みそは持ち合わせていないので、落合氏のツイートと私の陳腐な要約文が比較されて恥ずかしい限りですが…)

先に申し上げておきますと、私は落合氏のことを賢くてちょっと毒舌な人、という程度の認識しかしていません。彼の専門分野や社会的信条などについて詳しく知っているわけでもありませんし、Twitterでフォローしているわけでもありません。
(先にこう言っておかないとただの落合氏擁護派の人間だと思われかねないと思ったので…)

2.


して、そんな私がこのツイートを読んだ時、以下のような趣旨の反論が多く見られました。

・言論と暴力の区別が出来ていない
・言論の自由を否定する発言だ
・悪いのはメディアだ

これらの主張に出てくる「区別」「否定」「悪い」という言葉、ここから主張共通する思想が垣間見える気がするのです。それは、物事を必ず二つに分けることができる、という考え方です。言論と暴力は確かに別物なのかもしれません。しかし、両者の間にうっすらと関係性はないのでしょうか。確かに自由な言論は慎め、という内容に見えなくもないです。しかし逆に言えば、自覚を持って発言することは容認しているのではないでしょうか。メディアは悪いかもしれません。しかし、メディアは現実をありのまま、ではなく国民が見たいものを選んで発信します。言い換えれば国民の間で政府を批判する風潮が高まっているからそのような見せ方をしているのではないでしょうか。

確かに安倍元首相を銃で撃った人は悪い人だと言えるでしょう。(ここで殺人はどうして悪なのか、悪とは何か、のような議論を始めるとこのnoteを着地させることができなくなるのでしません)

ここで、その他の人たち(今回ではSNSで常々安倍元首相を批判していた人たち)は、悪ではないと言えるのでしょうか。

言えないと思います。確からしいと言えそうなのは「銃を撃った人は悪」ということだけ。その他の人たちが善なのか悪なのか、それともほとんど白に近いグレーなのか、雨が降り出しそうな雲のようなグレーなのか、それはわかりませんし、誰かがビシッと決めることはできない…

それなのにどんな物事もとりあえず二つのうちどちらに属するものなのかを考え、無理やり決めつけにかかり、自分は正しい側だと思い込み安心する、相手は間違っている側だとして攻め立てる…そんな風潮があるように感じられるのです。

物事は「卵が先か、鶏が先か」の議論のように明確な因果関係の一方通行があるわけではなく、またどんな物事も「善悪」や「真偽」のような対になる要素を同時に含むことがあるのではないかと思います。

(最も、主張なのだから二項対立的な考え方が見られるのは当然で、またTwitterには字数制限があるため文が簡潔になりすぎて区別したもう一方について言及できないということも承知しております)

3.


私は今、大学生ですが、いつの間にか物事をマル、バツで考えることが怖くなりました。

Aは良くてBは間違っている、Cは善でDは悪、のように、反対の意味を持つ言葉で社会をすっぱり分けることはできないのに、すぐに自分を正しい、善側だと思い込み、もしくは相手を間違っている、悪側だと決めつけて、自分と相手に線を引いて、安全地帯に逃げ込もうとしている人が多く見られるようになった気がするのです。

ただこれがおかしなことだとは思いません。人間は言葉によって物事を区別する生き物だと思うからです。例えば果物にリンゴ、ナシ、ミカンなどの名を付ける、空の星々にそれぞれ名前を付ける、物の個数に数字という名前を付ける、そのように区別して初めて人間は思考力を鍛えられるようになったのではないのでしょうか?(高校倫理でこのようなことを「言語の分節化」と呼ぶ、と学んだ気がします)

4.

そう思うとなぜ私はこんなnoteを書いているのでしょうか…履歴を見ると前回の投稿から一年が経とうとしています。Twitterも見る専ですし、積極的に意見を発信するタイプではありません。今回はたまたま衝動に駆られて…

冒頭での落合氏のツイートにもあるように、SNSでの発言はどこかで誰かに何かしらの影響を及ぼしている。でもその相手も実際の影響もわからないからこのnoteは投稿するべきではないのではないか…そんな風にも考えました。

ただ、読者の皆様がわかるのは、私がこのnoteを投稿する、しないという二つの選択肢のうち、前者を選び取ったということだけです。私がどんなに投稿するかしないか悩んでいたかはわからないはずなのです。(一応文面では悩んだ末投稿したとなっていますが、読者の皆様はその真偽を確かめられませんよね…)

それでも、落合氏が主張するように自分の発言がどこかで誰かに何かしら影響を与えているかもしれない、と自覚をもってこのnoteの投稿を決意したなら、私のやっていることは正しい…いえ、正しいか間違っているか即決して自分を正しいと思い込んでしまってはいけない。考えること、考え続けること、考えるのを辞めないこと、悩み続けること。

それこそが今を生きるにあたって大事なのかな…と久々にいろいろと思考を巡らしたとある金曜の夜でした。

最後に

主張の見えづらい文章になってしまったのも考え続けた結果だと思っていただければ幸いです。

また、読んで明らかなように、私は文章力も立派な意見を述べられるほど専門的知識も持ち合わせておりません。私のnoteが気に食わない方、また専門的な知見から意見できる方はぜひコメントをお寄せください。勿論何気ない感想などでも大丈夫です。そしてそのコメントを元に、私も日々考え続けていこうと思う次第です。

最後にはなりますが、安倍元首相のご冥福をお祈り申し上げます。

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