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読書のはじまり

幼い頃の私は例に漏れず、読書が嫌いな普通の子供だった。本を読むにしても、『かいけつゾロリ』シリーズをはじめとする原ゆたかの作品か、あかね書房から出ていた『ぞくぞく村のおはけシリーズ』ぐらいのものであった。それが、なにがどうまかり間違って本の虫(自称)になってしまったのかを、大きなふたつの出会いを通して、適当に書いていこうと思う。

『ハリー・ポッター』シリーズとの出会い

私が生まれた2001年は、ちょうど映画『ハリー・ポッターと賢者の石』が公開された年だった。私の人格が大きく形成された時期には、ハリー・ポッターはいつもエンターテインメントの最前線を突っ走っていたように思う。

たしか小学二年生の時、映画の影響を受けた私は、静山社から出ていた『ハリー・ポッターと賢者の石』を読み始めた。児童文学とは思えない語彙で翻訳されたこの本は、小学校低学年の私にとって読めたものではなかった(内容云々というよりも、やはり異文化や漢字に阻まれて想像・理解がしにくかった)。親切なことに「一度目は」ほとんどの漢字にふりがなが振ってあったが、その後は一切出てこなくなってしまうため、何度も「一度目」に立ち返って読んでいった。

そんなことをしているうちに、とうとう音としても聞いたことの無かった言葉にぶち当たることになる。私は「憤慨」に出会った。『ハリーは憤慨した。』ーー「憤慨」とはどういった意味なのかを母親に尋ねたところ、彼女は私に国語辞典を手渡した(ちなみにこの時、「とても怒っている」ではなぜダメなのか、というニュースピーク的な思いを抱いた記憶がある)。辞書を片手に読み進め、また辞書自体を読むという読書体験は、こうして形作られたのである。

ディストピアとシェイクスピア

もう一つの出会いは小学五年生の時。この頃から今に至るまで仲のいい友人のT君は、私にあさのあつこの『NO.6』シリーズを勧めてきた(アニメはとっくに終わっていたが、コミカライズ版は連載中の時期だった)。『ハリー・ポッター』シリーズ以外では挿絵のない本をほとんど読まなかった私(この頃でも未だにゾロリを読んでいたような気がする。今考えるとなんかキモい)は、彼の「面白いから読めるよ」という言葉を信じていなかった。今思い返すと、この時、この本を読んで本当に良かったと思う。それほどに、私の読書傾向は完全に『NO.6』に決定づけられているのだ。このシリーズは私にとって、挿絵のない本を読むようになったきっかけでもあるし、「芋づる」の最初に掴んだ部分でもあった。

このシリーズの主人公の一人である少年「ネズミ」は、その美貌を活かしスラム街で役者をしている。その彼がもう一人の主人公「紫苑」に、シェイクスピアの『マクベス』を朗読して聞かせるという場面(もしかすると紫苑がこっそり見ていただけだったかもしれない)が何度も登場するのだが、これらをきっかけに私はシェイクスピアに興味を持つことになる。

『ロミオとジュリエット』や『リア王』など、シェイクスピア作品の子供向けの抄訳などいくらでもあったはずなのに、あろうことか私が選んだ訳は研究社のものであった(おそらく『NO.6』で引用されていた訳だったのだろう)。そもそも戯曲という形式に触れたことのなかった私は、あまりの読みにくさに挫折しそうになるが、ものすごい時間をかけて何とか読み切った。

これらの経験によって私は、ディストピアもの、そして「元ネタを辿る」という行為、そして「派生を追う」という行為に魅入られることになったのである(この辺はほとんど性癖と化していて、T君はなかなか罪深い男だと言わざるを得ない)。
とくに、派生(オブラート)を追うことにはまった私は立派なオタクに成長するのだが、それはまた別のお話である。

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